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仕事001「宣教師・教育者」

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001

宣教師・教育者

“世にあって星のように輝く”

創立者スミスも、卒業生たちも、

この言葉が「仕事」への

姿勢となりました。

サラ・C・スミス [北星学園創設者]

1851年、アメリカニューヨーク州で生まれ。20代で宣教師として日本に派遣される。東京の私立新栄女学校(現 女子学院)の教師として赴任。1887年夏、札幌でのスミス女学校を開設し、その後「北星女学校」に改称。

目指したものは、札幌の女子教育

▲1894年の北星女学校

サラ・C・スミスは1851年、アメリカニューヨーク州で生まれました。地元の小学校を卒業後、スミスは「フリーアカデミー」で学びます。この学校はアメリカの実社会に役立つ人材の養成を目的としており、自由な雰囲気でした。

その後は、フランスやドイツに留学し、師範学校に進みました。その後、病気の子どものための養護学校で5年間教師を勤めました。

スミスには兄がおり、牧師に就任した直後に病に見舞われています。それが彼女の「召命感」につながり、1880年、20代で宣教師として日本へ派遣されました。最初は東京の私立新栄女学校(現 女子学院)の教師として赴任。ここで3年間勤めている間に体調を崩し、医師とアメリカ伝道局から帰国を命じられました。

しかしスミスには、日本の女性の自立を願って「女学校をつくる」という目的がありました。伝道局は健康の優れないスミスが開拓途上の地で活動する許可を下さなかったので、彼女は外国人居留地のある函館で、幼い女の子たちに英語、家事、聖書を教えながら学校設立の機会を待ちました。

 

35歳で、女学校開設のチャンスが

転機が訪れたのは1886年、スミスが35歳のときでした。

スミスはお雇い外国人として師範学校英語教師の職を得ます。1887年、函館から7人の生徒を連れて、札幌での女学校開設に踏み出しました。伝道局からは女学校開学の資金援助は受けられず、英語教師としての給与を用いて、活動を開始したのです。

スミスは「実生活において義務と責任を全うできる有用な知識を教授する」ことを重視しました。これはかつて学んだ「フリーアカデミー」の理念とも共通しています。その教育は評判となり、40人を超える生徒が集まりました。その情熱に打たれた北海道庁長官・岩村通俊は、自分の娘を入学させたばかりか、北海道庁から新築校舎を無償貸与するよう取り計らっています。

1887年夏、初代校長スミスのもと、生徒46人が在籍する女学校の新校舎が整いました。

草創期には資金もなく、師範学校の勤務もあって、自分の学校に充分な時間を割くことができませんでしたが、生徒たちにとっては、スミスと起居を共にした時間が、授業にもまして大きな学びを与えることになりました。

 

生徒が考えた「北星」の名を掲げて

▲1923年 教育功労者として勲六等瑞宝章を受章

その後、スミス女学校は「北星女学校」に改称され、1915年には名誉校長となって学校の運営責任を退きました。1930年には来日50年の祝賀会が行われていますが、そのときスミスは79歳でした。

その翌年、スミスは帰国を決意します。送別会で「キリストはご自分を喜ばせることはなかった」という聖書の言葉を残しています。それは「過去を忘れ、将来を望んで努力する」ことを胸に歩んできた生き方の表れでした。

帰国後は、引退宣教師の「レディーズホーム」で暮らし、1947年、95歳の生涯を閉じました。

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