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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ  2021.02

まだ、若かったころ。

インド南部の小さな町に鉄道で降り立った。いつもながらの一人旅。すぐにリクシャー(バイクタクシー)のお兄ちゃんが客引きに寄ってくる。リクシャーは値段交渉をして乗るもの。まずは、お兄ちゃんがブロークンな英語で話しかけてくる。

 

「ユア ネーム?」

――「モエミ」

「グッドネーム!」(恐縮です)

「カミングフロム?」(あ、どこから来たかってことだ)

――「ジャパン」

「グッドカントリー!」(ありがとうございます)

「エイジ?」(あ、年齢きいてどうするんだろう?)

――「サーティスリー」

「マリッジ?[結婚してるのか?]」(なるほどーそういうことか)

「ノー」と答えると、真剣な顔つきになり直球がやってきた。

「ホワイ?」

わー理由まで聞くんだー。もうセクハラの線こえたー。

 

パーソナルな質問の嵐に度肝を抜かれながらも、「ホワイ?」に答えてみた。「ノー グッド メン アラウンド ミー(いい出会いがなくてねえ)」と、ジョーダンっぽっく言ったつもりが、彼はすかさず「ドン ウォリー、ファインド ユー、ナイス インデアンマン!」素敵なインド人を紹介までしてくれる・・・らしい。一気に仲人を買って出てくれた笑。「サンキュー」と答えると、次の質問は「アーユー ベジタリアン?」だった。結婚条件の第一位が食べ物なんだ。とても興味深い。確かに一緒に暮らし始めたら肉を食べるか食べないかは一大事だ。「アイム ナット ベジタリアン」と答えた。インドでは7割程度がベジタリアンなので、私の「相手」を探すのは大変だろうな・・・と思いながら、出会って数分でここまで私のプライバシーを深堀してくるこのインドのお兄ちゃんに脱帽。楽しいひと時となり、彼のリクシャーに乗ることにした。

 

20代後半でアメリカに留学していた時のことを思い出した。インドからの女子留学生と、アメリカに来て経験したカルチャーショックについて話した。私は、アメリカ人のルームメートの話し声が大きくて、大声で歌も歌うし、戸惑っていると。一方彼女は、「アメリカ人は何も質問してくれない」と。「家族のことや、生活のこと・・・私に関心を持ってくれない・・・寂しい」と。実は私もアメリカに3年住んでいて一度もアメリカ人から年齢を聞かれたことがなかった。年齢は実にパーソナルな事柄で、アメリカ人の研ぎ澄まされた人権感覚からすると尋ねることはタブー。彼女の話を聞いて、アメリカ人は困惑していた。「あなたを寂しくさせたのは申し訳ないけど、どこまで聞いていいのか私にはわからないんです。たとえば、家族構成を聞いてもいいの?」インドの彼女は「何でも聞いてください」と笑顔で答えた。

 

「愛の反対は無関心である。」他でもないマザーテレサの言葉だ。個人の領域にずかずかと入ってくるインドの人々に違和感を抱きながらも、一方で包み込むような愛を感じる自分がいる。個人主義を称えるグローバリゼーションの波がインドのそんな温かい精神性を奪っていくのも時間の問題かなと思うと、私もまた寂しい気持ちになる。人権と無関心。プライバシーと愛。問題はシンプルではない。でも、現地の人たちと直に出会って、考えて、自分に問う、それは気づきに満ちた楽しい営みであることは確かだ。

 

また、旅にでよ。

新年を迎えても、新型コロナウィルスに翻弄される生活が続いています。本当にコロナによって、私たちの日常、常識、当たり前は激変しました。

 学校に通うこと、学校で勉強すること、友人と楽しく談笑しながら昼食をとること、球技大会で盛り上がること、修学旅行に行くこと、クリスマス礼拝のラストはみんなでハレルヤを精一杯歌うこと、私たちが日常生活において当たり前に行ってきたことが、次々とできなくなりました。

 また、マスクの着用、換気、消毒、食事は前を向いて極力私語をしない、讃美歌は同じ方向を向いて口ずさむ程度、このようなことが日常生活の当たり前に加わりました。

 先日、中学のスキー授業が行われ、今年は3回とも参加させてもらいました。最終日も天気がよく、海がきれいに見えました。

「今年スキー授業できたんだなあ」ふっとリフトに乗っているときに思いました。これまで北星で教員になって約20年、当たり前に行われているスキー授業ができたことに感動している自分がいました。

 学校に行けること、生徒や先生たちと何気ない会話ができること、これまで当たり前にできていたことがいかに恵まれていたことか、幸せなことだったのかということに気づかされました。

 当たり前に感謝するきっかけになったことだけは、コロナの功績なのでしょうか、、、、

私は国語科の教員です。この仕事を始めて数十年になりますが、授業で文字を書く時はほぼたて書きです。他の教科の先生は黒板を左から使うのに対し、国語科の教員だけは右から黒板を使い始めます。私はたくさん文字を書いてしまうので、できるだけ右端から書きたいのですが、クラスへ大事なお知らせがある時の黒板は右側からプリントを掲示したりしています。なるほど、黒板の右側ユーザーである私たちは少数派なのね…とちょっぴり悲しくなります。入試で扱われる本文はさすがにたて書きですが、小論文はほとんどがよこ書きのスタイルに移行しました。私たちが板書する形態もいずれ変わっていくのでしょうか。そもそも、「黒板」というツールはもはや古いのかもしれませんが。

―情緒的な文章はたて書きの方が伝わりやすい、物事の説明や論理性が必要な文章はよこ書きの方が伝わりやすいー。こんな一文をどこかで見受けましたが、たしかにファッション雑誌の巻頭を飾る芸能人のエッセイはたて書きが多いですよね。でも、新聞の書き方はたて書きですが、すべてが情緒的な内容だったら日々のニュースも空想の世界が入って何が真実かわからなくなってしまいそう。ケータイの画面がたて書きだったら見づらいですが、コミックのセリフはそのほとんどがたて書き。私たちは無意識のうちに、たて書きとよこ書きの文章を使い分けているのかもしれません。

文章のことを「テキスト」と言いますが、語源は「テキスタイル」=「織物」です。織物はたての糸とよこの糸を紡ぎ合わせて一つの生地ができますね。それと同じように、日本語もたての糸を主軸とした「たて書きの風景」が、よこの糸を主軸とした「よこ書きの風景」が紡ぎ出されます。私は、たて書きで書く漢字やカタカナやひらがなの文字列がとても大好きです。それは、それぞれの文字が連なって一つのアートを創り出しているように思えるからです。また、上から下へ目を通すことで、言葉が一つひとつ、自分の体に落ちてゆく感じがおもしろい。世界の中でたて書きの言語は少数ですが、これからもそのたて書きの風景を楽しみながら、さらなる魅力を感じ取りたいです。

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私の趣味の編み物もテキスタイル=テキストです!

 

 

           私の趣味の編み物もテキスタイル=テキストです!

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