検索 OPEN/CLOSE

受験生の方へ

制服

本校で必要となる制服やジャージなどの
種類と価格をご紹介します。

  • 制服(冬):33,696円
  • 制服(夏):31,968円
  • オーバーコート/ダッフル:24,300円
  • Aライン:21,924円、上靴:6,480円
  • 外靴(ローファー):7,020円
  • 体育着(ジャージ・短パンなど):19,600円
  • 運動靴:5,800円
  • 聖書・賛美歌:6,658円

(金額は一例です。サイズ・仕様等により、金額が異なります)

制服の移り変わり

スミス女学校〜北星女子校〜北星女子中学・高等学校

1887(明治20)年〜1900(明治33)年
【着物時代】

開学当時から制服はなく、第7回卒業生(1900年・明治33年)まで、記念写真は着物姿である。

参考資料:アルバムL180(北星女学校卒業生第1回〜第10回)

1890(明治23)年頃のスミス女学校生

※110年史には1893(明治26)年とあるが、2年後の河井道の写真と比べると子供すぎるので、1890(明治23)年の方が正しいと思われる。

この中に最初の7人の生徒、田口(川崎)ふさ(1回生・後列右から4人目)、河合(吉本)りゅう(2回生)、時任(岩谷)ちか(2回生・前列右から3人目)、河井道(3回生・前列右から4人目)、堀川(高山)なお(3回生・後列右から5人目)も写っている。

1894(明治27)年〜・
または1935(大正10)年頃〜 【星の校章】

「スミス女学校」を「北星女学校」と改称した1894(明治27)年頃から、生徒たちが市販の銀色の星のメダルを用いたのが学校にも認められたという説と、1935(大正10)年頃に在職していた米国人教師ダンロップ先生が生徒とともに工夫したものという説がある。1915(大正4)年に校長に就任したアリス・モード・モンク先生は”北星”は”北極星”を意味するものと考えていた。「この星は移動することなく、人々の確実な目標となり、指導の役目を果たすものである」と繰り返し生徒たちに教えていたという。

参考資料:北星学園八十年誌稿

1901(明治34)年〜大正時代
【袴姿のハイカラ時代】

第8回卒業生(1901年・明治34年)から、卒業記念写真の学生は袴姿である。15回卒業生(1908年・明治41年)から、袴の裾から15㎝上あたりに1.5〜2㎝幅のラインが入る。当時の女学生はその袴の線の色と形で各学校の生徒を見分けていた。袂の着物に袴、頭にリボンを付けていたハイカラ時代である。1924(大正13)年・女学校第35回生の写真から洋服姿が見られ、履物も草履や下駄から靴に変化している。

参考資料:アルバムL181(北星女学校卒業生第11回〜第20回) アルバムL433 ほか

1908(明治41)年 女学校第15回生 袴にラインが入るようになった

昭和初期〜1932(昭和7)年
【洋服の時代へ】

昭和に入ると洋服やセーラー服姿が目立つようになる。当時の札幌では、制服といえばセーラー服が一般的だった。北星ではセーラー服の着用は強制的ではなく「洋服を作るなら制服を作ってください」というゆるやかなものでデザインも統一されていなかった。

参考資料:アルバムL463(1929〜1934年)・アルバムL281(1932年)、創立百周年記念文集「星のあゆみ」(女学校36回卒 百川モト)、北星学園女子中学・高等学校の110年(座談会Ⅰマンク先生の時代)

昭和初期の寄宿生 決まった制服がなく、洋服や着物が混在している。

1933年(昭和8)年4月〜
【星のセーラー服時代】

「北星学園八十年誌稿」には、ナンニー・M・ヘレフォード先生のすすめにより制服が定まったと記されている。しかし、卒業生の証言によると、札幌に行幸した昭和天皇をお迎えした際、庁立高女など他校の生徒が制服を着て整列しているのを見て、制服にあこがれた生徒たちの発案と働きかけで初めて制服が制定されたという。新しい制服は濃紺色、上衣はセーラーで下はプリーツスカート。セーラーの肩布と袖口には一本の白線、肩布左右の下部には白い星を付けた。セーラー服は現在とほぼ同じデザインだが、白線入りの胸当てがあり、スカートの裾から10㎝上あたりには黒いラインが入っている。校章の星バッチは、リボンの結び目ではなく、セーラーの襟元に付けていた。この頃は深くて鍔が狭く、黒いリボンを結んだ制帽もあった。校則違反であったがオシャレな生徒は胸当てを折って隠していたという。

参考資料:北星学園八十年誌稿、北星学園女子中学・高等学校の110年(座談会Ⅰマンク先生の時代・特別寄稿)

1938(昭和13)年 スカートの裾に白いライン、セーラー服には胸当て、校章はリボンではなく襟元に

1941(昭和16)年〜1945(昭和20)年
【セーラー服から国民服へ】

戦時教育体制が強まると、セーラー服姿に国民服が混じるようになる。衣料は切符制になっており、入学してもすぐに制服はできず、なるべく地味な服を着て通学。疎開が始まり、東京から転入してきた生徒の違う制服姿も見られ、やがて全員が国民服を余儀なく着用させられる。切符で作られた国民服の上衣は、へちま襟でウエストにはベルトが付いていた。冬服は紺色に白い襟を重ね、夏服は白だった。胸ポケットに自分で刺繍したワッペンを付けた。下は4枚接ぎのフレアースカートだったが、学徒動員が本格的になるとモンペかズボンをはいた。

参考資料:「私たちの北星」リラの会(女学校54回生・1947年卒)

1941(昭和16)年8月 宣教師の離日 太平洋戦争が始まる年、全校生徒とお別れの記念に。上級生はセーラー服を着ているが、新入生(右側1/3)は国民服しか着られなかったのがわかる

1945(昭和20)年〜
【国民服からセーラー服へ】

敗戦とともにセーラー服は復活するが、国民服も混在していた。

1945(昭和20)年 北星高等女学校の寄宿生 校舎や寄宿舎は女子医専や米軍に接収され、寄宿生は旧北1条教会の敷地内ローリー館で生活していた。国民服とセーラー服が混在、下はモンペ。校章はワッペンと星型の両方を付けている生徒もいる

1941(昭和16)年頃
校章を刺繍したワッペンと四角い校章

1948(昭和23)年頃
復活した星型の校章(左)は、先がまるかった

校章を学校内で募集。ワッペンの真ん中に星、左側にライラックの花、右側に北星の「北」の字をデザインしたものを自分たちで刺繍した。この校章は購買から図案入りの布を求め、夏はブルー、冬はエンジ色の生地に白糸を使い自分で刺繍した。戦後は四角い校章に変わった。

参考資料:「私たちの北星」リラの会(女学校54回生・1947年卒)

 

1950年代 【現在のセーラー服へ】

1951(昭和26)年 エバンス先生とリプカ先生の送別会
セーラー服の胸当てもスカートのラインもなくなり、この頃から現在の制服とほぼ同じデザインに

PAGE TOP