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キャリアデザイン

仕事011「医師」

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011

医師

病院と家庭とボランティア。
できる限りすべてを続けたい。

濱田 啓子さん(旧姓 斉藤) [普通科 1968年卒]

東京女子医科大学医学部卒業後、北海道大学医学部付属病院産婦人科勤務、1977~1978年は米国フィラデルフィア在住。1984年、医療法人北祐会神経内科病院の開設にあたり創立者の故濱田 毅氏と力を尽くし、現在も勤務を続ける。各種ボランティアとしても活動。琴似中央通教会員。

神経難病の方のために夫婦で日本初の専門病院を開設

北星女子を卒業して東京女子医大に進学しましたが、優秀な人がいっぱいいて、ついていくのに必死でした。

医師を続けながら結婚・出産をし、子どもは全部で5人。日本初の神経内科の病院を建てるために、主人を支えました。

私はもともと産婦人科医で神経内科の専門ではありませんが、神経難病の方のために、自分たちの手で専門病院を作りたいと一大決心したのです。

病院では、時間の余裕がない若い先生たちに代わって産業医の資格を取り、リハビリの勉強会に出席したりなど、私にできることをやっています。

甘えるところは甘えるけど、自分できるとことはやる。今はもうチーム医療が当たり前になっていて、いろんな人の力を借りなくてはなりませんから、そういう気持ちが大事なんじゃないかなと思います。

主人は2007年に64歳で亡くなりましたが、亡き主人の思いを引き継いだ職員170人と共に私は私なりの役割を全うしています。

 

アメリカに渡っても、帰国してからも周りに助けられた5人の子育て

▲日本初の神経難病に特化した病院の開設を支え、今日も変わらず患者さんとその家族に応える濱田さん

主人と一緒にアメリカに渡り、3番目の子どもを出産し子育てをした時期は2年間だけ仕事を休みました。

仕事をしていない期間でたくさんの友達ができ、いろいろと相談したり助けられました。帰国してからも周りに子育てを助けてもらいました。

いま、医学の学会にも託児所を設けることが増え、子連れでも学会に参加できるようになっています。時代は変わってきていますね。

 

日本女医会や地域の音楽活動など病院以外でも活動。
ますます盛んに

最近は、病院以外のボランティアなどの仕事も引き受けるようになりました。

「西区オーケストラ」にも参加しています。30年前主人と一緒に6人から始めた集まりです。はじめは自宅で演奏会をしていましたが、今は年に一度、Kitaraの大ホールを借りて公演をしています。

続けてきて一番嬉しかったのは、病院の職員や患者さんが公演を聴いて「先生、すごくよかったよ。またあったら教えて」と言われたこと。あまり音楽に接する機会がない人から褒められるのは誇りに思いますね。

日本女医会本部の理事は5期務め、働く女性の集まりである日本BPW連合会にも参加しています。他にも札幌市の委嘱介護認定審査会や国の委嘱人権擁護委員としても活動しています。

 スケジュール管理も自分でしなければならないので、手帳の中は色分けしたペンで書いた予定でびっしりです。

 

「なぜそんなに」と言われても仕事はできる限り続けていきたい

周りから「なぜそんなに忙しくしているの」と言われますが、9人の孫から沢山のパワーをもらいながら、できる限りやっていきたいと思います。こうしてボランティアの仕事を続け、最後は教会のために働きたいと思っています。

私の人生悪くない。けっこう面白い人生だと思いますよ。いろいろな方に出逢い、いろいろな事を教えてもらう。やっぱり人が大好きなんでしょうね。

 

※記事中の所属・役職等は2018年2月、本校制作の冊子『130人の私が輝く仕事』掲載のものです。

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