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校長・教員ブログ

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多くのアメリカ人がコーヒーを飲み、多くのイギリス人が紅茶を飲むのはなぜか?アメリカ人は独立戦争前、戦争中、戦争後に紅茶をボイコットし、イギリス政府は紅茶に課税することでより多くのお金を得たからだ。

両国はともに正反対の国として始まり、正反対の国として終わった。アメリカの初期には紅茶の方がコーヒーよりも人気があったが、今ではコーヒーの方が人気がある。1600年代以降はコーヒーの方が紅茶よりも人気があったが、今では紅茶の方がコーヒーよりも人気がある。

まずイギリスを見てみよう。イギリスでは1600年代までコーヒーも紅茶も知られていなかった。コーヒーの飲用はアフリカで始まり、中近東を経てオスマン帝国全体にゆっくりと広がっていった。南ヨーロッパには1500年代半ばに上陸し、1600年頃にオランダ人によってイギリスに伝えられた。コーヒーの需要が高まり、多くのコーヒーショップができた。イギリス政府は植民地でのコーヒー栽培を始め、コーヒー栽培は広まった。非常に人気のある飲み物で、人々はコーヒーショップの環境だけでなく、その味と効果も好んだ。数十年のうちに、イギリスには何千ものコーヒーショップができた。

紅茶が英国に伝わったのは、コーヒーのほぼ半世紀後のことだった。アジアで飲まれていたお茶は知られていたが、イギリスでは売られていなかった。1650年、紅茶はイギリスに紹介され、トーマス・ガーウェイは自分のコーヒーショップで初めて紅茶をドリンクとして販売した人物として知られている。あまりに斬新な飲み物だったため、彼は紅茶と一緒に配ったパンフレットでそれが何なのかを説明しなければならなかった。紅茶は一般的に薬として、健康に良いものとして売られていたが、非常に高価で、本当に裕福な人しか飲めなかった。紅茶は喫茶店でもよく売られていたが、それほど人気はなかった。最初の紅茶店ができたのは1706年で、トーマス・トワイニングの店だった。

18世紀半ば、東インド会社は中国との貿易を始め、インドで茶の栽培を始めた。供給は増え、価格は下がった。より多くの中流階級や労働者階級の人々が紅茶を買えるようになったが、紅茶を飲むことは上流階級と結びついていたため、紅茶はとても立派な飲み物だった。1700年には外国産とみなされていた紅茶も、世紀末にはイギリスらしい飲み物とみなされるようになった。紅茶がコーヒーを上回るようになったのは、コーヒーの価格が不安定になったからだ。それと同様に、東インド会社はイギリス市場にできるだけ多くの紅茶を押し込んだ。政府は税収のために彼らを支援した。19世紀には、紅茶はコーヒーよりもはるかに人気があった。

アメリカはこの逆だ。1600年初頭、オランダ人入植者がアメリカの植民地に紅茶を持ち込んだ。紅茶はアメリカ植民地で最も人気のある飲み物となった。紅茶はオランダ東インド会社によって輸入された。イギリスがすべての植民地を支配したとき、彼らの東インド会社は分け前を欲しがり、紅茶の輸入を始めた。紅茶は中国から輸入され、東インド会社にとって非常に有利なビジネスだった。しかし、1773年までに東インド会社は大赤字を出すことになる。イギリス政府は東インド会社を支援するため、紅茶法を制定し、東インド会社にアメリカ植民地での独占権を与えた。これによって東インド会社の紅茶は安くなったが、多くのアメリカの紅茶輸入ビジネスに打撃を与えた。ボストン茶会事件では、大量の英国産紅茶が船から投げ捨てられた。これによりイギリスは報復に転じ、やがて宣戦布告された。

これ以降、アメリカ人は紅茶を飲まなくなった。紅茶は裏切り者の飲み物として知られるようになり、アメリカが戦争状態にあったイギリスと結びついたのだ。独立戦争中、紅茶はボイコットされ、人々はコーヒーを飲むようになった。戦争が終わる頃には、人々はコーヒーに慣れ親しむようになり、紅茶は依然として敵国イギリスを連想させ、復活することはなかった。アメリカは依然としてコーヒーを飲む国なのである。そして、これが今日私が学んだことである。

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