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校長・教員ブログ

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最近、娘の「なぜなぜ期」が加速しています。 

 

霧のかかる山を見て、「なんで山がしろくなってるの?」 

自分の4歳の誕生日を迎えて、「なんでまだ5さいじゃないの?」 

当直で帰ってこないパパのことを考えて、「なんでパパはおしごとにいくの?」 

自分より先にデザートの果物を食べ始める弟を見て、「なんでもう食べていいの?」 

 

すぐに答えられる質問から、正直答えに窮する質問まで様々なことを聞いてきます。 

そこで私は、いったんぐっと我慢して聞き返してみます。 

「なんでだと思う?」 

 

すると意外や意外、まあまあの確率であながち遠くない答えが返ってきます。 

「うーん、さむいから?」 

「うーん、4のつぎは5だから?」 

「うーん、おしごとだから?」 

「うーん、ごはんぜんぶ食べたから?」 

 

そして私の説明を聞いて、わかったようなわかっていないような顔でさらに何か別のことを聞いてきたりします。 

脳科学的には、3歳で大人の8割に当たる程度の脳神経が完成していて、成長過程でもののしくみや原理に関心を持った結果なぜなぜ期になるのだそうです。 

 

あたらしいことを知るって、たのしいよね。わかるよ。 

大人になってしまうと、自ら何かを学ぼうとしない限り、 新しいことを知る機会やそのために使える時間がなかなかないんですよね。 

だから、黙っていても新しい知識がどんどん得られたり、 自分の興味のあるままにいろいろな経験ができる子供たちや生徒たちが 少しうらやましいなと思います。 

 

I have no special talent. I am only passionately curious. 

――私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。 

 

アインシュタインの言葉です。 

私は教師として、親として、生徒たち・子供たちが自分の好奇心のままに、新しいことを吸収できるように、できる限りのサポートをしていきたいと思います。 

あ、自分の好奇心も、たまには大事にしてあげないとね 

 

 落ち込んだり気持ちが沈んだ時…、そこから気分を上げたり、和ませようとする際、私はよく好きなエッセイや本などを読み返します。その1つを紹介させてください。 

 タイトルは『広い海へ出てみよう』という、さかなクンのエッセイです。 

 中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけがわかりませんでした。でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。(朝日新聞2006年12月2日掲載) 

 さかなクンらしい、海・魚とのたとえは非常に興味深いものです。そして人間関係にもドンピシャで当てはまるものです。日々の生活を送る中で、自分が急に一人になってしまうこと、身近な誰かが一人になってしまうことがあったとき、私はこの文章にたどり着き、色んなヒントを頂きます同じ文章でも、年齢を重ねていくことによって、感じ方や受け取り方も変化します。 
 皆さんも気分を上げたり、和ませるお気に入りの文章ありますか? 

9月26日に第54回音楽科定期演奏会が行われました。定期演奏会は毎年、代表生徒の挨拶と校歌の演奏で締めくくります。今年の挨拶の中で、「(自分たちは)先輩から受け継いできたバトンを次の世代に渡そうとしています。」との言葉がありました。6年生が音楽科生徒としての自覚と責任を持ってこの演奏会に臨んでいたことが伝わる言葉でしたし、その想いが伝わる演奏会でありました 

 

音楽科は今年で創設55周年を迎えました第1回の定期演奏会は共済ホールで開催されましたその後北星学園講堂(現スミス記念講堂)での開催となり、第29回に会場を札幌コンサートホールKitara小ホールに移しました。そして、第34回から大ホール開催となり現在に至ります。長い年月を経て今日の形式となった演奏会ですが、今後も生徒たちの手により変化を遂げていくことでしょうその過程で「“生徒による定期演奏会”との自覚をもつことができるよう、精一杯の努力をし、励んできました。」(第11回演奏会プログラム生徒代表の言葉より)との思いが脈々と受け継がれているのだと感じます。 

 

定期演奏会は6年生が中心となり、企画から運営まで半年以上の時間をかけて創り上げています。6年生が3学年をまとめることは大変なことです。学年によって抱える課題や技術力、練習のスタイルも異なります。だからこそ生徒たちは「自分たちで創り上げた演奏会」に誇りを持ち、Kitaraの大舞台に立った時“先輩が作ってきた演奏会を成功させ、後輩へ繋いでいきたいという気持ちで一つになれるのだと思います 

 

音楽科は来年度からMusicコースとなります。「音楽科生徒3学年による定期演奏会」は今年度で最後ですそして来年度は「Musicコースが加わった新しい定期演奏会」となり、再来年度は「音楽科生徒最終学年による定期演奏会」になります。これからの定期演奏会が、長らく音楽科を支えてくださった学内外の皆さま、とりわけ音楽科同窓会である「星音会」の皆さまに対し、これまでの感謝の気持ちをお伝えすると同時に、その成長を喜んでいただける場となることを願って止みません。 

 

 今年の定期演奏会の代表生徒の挨拶は、次のように締めくくられました。「音楽科は来年度からMusicコースとして新たにスタートします。(中略)これからも北星音楽科をよろしくおねがいします。」私もこの気持ちで一杯です。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 

今年の夏もとても暑い日が続きましたが、皆さんはどんな思い出が残りましたか。私の2024 夏の思い出をお話したいと思います。 

今年の夏休み期間中に、京都に滞在する機会がありました。宿泊したホテルが京都駅の近くだったことと早朝しか時間がとれないこともあったので少し早起きをして駅周辺のお寺に限定して参拝することにしました。 

最初に参拝したのは東寺です。平安京への遷都とともに建立され、真言宗の宗祖である空海にたくされたお寺として歴史の授業で登場するお寺です。創建からおよそ1200年のたたずまいには圧倒されるばかりでした 

もう一つ訪ねたお寺は東本願寺ですこちらは、親鸞を宗祖とする浄土真宗の真宗大谷派の本山です。境(けい)内(だい)には、親鸞の御(ご)真(しん)影(ねい)(木像)置(ち)している御(ご)影(えい)堂(どう)があって、自由に参拝できるようになっています。この御影堂は世界最大級の木造建築物で、敷(し)かれている畳(たたみ)は合計で927枚にもなるそうです 

午前7時を過ぎたころ、御影堂に50名の小中学生の奉(ほう)仕(し)団(だん)のグループが入ってきて、朝のおつとめ本校では礼拝にあたりますを始めました。そのおつとめの最後のほうで、次の唱(しょう)和(わ)が始まりました 

 
  「Buddham Saranam Gacchami  (ブッダン サラナン ガッチャーミ) 

「Dhammam Saranam Gacchami (ダンマン サラナン ガッチャーミ) 

「Sangham Saranam Gacchami  (サンガン サラナン ガッチャーミ) 

 

◇これは「三(さん)帰(き)依(え)文(ぶん)」といわれるもので、仏教徒がブッダに帰依=心身を委(ゆだ)ねることを誓うもので、3回繰り返すことで誓いを強調します。言語はインドの古い言葉であるパーリ語です。 

日本語訳「私は仏陀(ブッダ)に帰(き)依(え)します。」(ブッダ=悟りを開いた者) 

私は (ダンマ)に帰依します。」(法=ブッダの教え) 

私は (サンガ)に帰依します。」(僧=ブッダの教えを実践する仏教集団) 

 

   ※奉仕団=東本願寺がおこなっている全国の小中高生の交流を目的とした活動とそのグループ 

 

その澄み切ったフレーズを聞いた瞬間私が中学3年生だった39年前の夏に当時の奉仕団に参加していた記憶がよみがえってきたのでした全国から集まってきた同年代の仲間たちと京都市内でのフィールドワークや奉仕活動を通じて、様々な友人関係を広めることができた貴重な体験でした。 

さらには、33年前に訪ねたインドのブッダガヤ-にあるサマンバヤ・アシュラム(参照:教員ブログ「インド珍道記Ⅱ」)のことにも思いを馳(は)せることとなりましたそれは、お世話になっていたアシュラムでも寄宿している約50人の子供たちが朝のお祈りで三帰依文を唱和することから1日を始めていたからです。彼らは、アウトカーストという厳しい環境の中でも決して希望をすてることなく、自身の夢の実現のために必死に生きている姿が大変印象的でした。 

 

今年の夏は、たまたま京都を訪ねて、限られた時間内での観光だったのですが思いもよらずに中学3年生の自分を振り返ることができたり、学生時代に関心があったインドにまでつながっていくことに出会いました 
 
 「食べず嫌い」という言葉がありますね。 
  見た目や先入観、思い込みだけで判断するすることなく、まずは一度、挑戦してみませんか。 
 「まずは一度、食べてみるか」・・・今年の夏の思い出です。 

このブログを読んでいるみなさんは毎日誰かの機嫌をとっていますか? 

 「あの人、もしかして怒ってるのかな?」、「あの人、なんだか悲しそうだな…」そんなことを考えながら毎日を過ごすなんて息が詰まってしまいそうですし、誰かと会うことが億劫になってしまいます。 

でも私はなるべく「機嫌をとる」ように毎日を過ごしています。それは他人の「機嫌」ではなく、自分の「機嫌」をとることです。「今日は疲れているな」とか、「なんだか今日は元気が出ないな」と思う日にとっておきの「機嫌をとる」方法を用意しておくのです。特に元気がない、疲れているなと感じている時にはお肉を食べるようにしています。私はジンギスカンが大好きですが羊肉はいいお値段がするので、「明日からの生きる活力が必要だ!」と思う時に奮発して買います。そうすると、昨日お肉を食べたから今日の私は頑張れる!と、自分を励ますことができるのです 

失敗をしてしまった日や、自分のだめなところを考えて落ち込むこともあります。そんな時には家に帰った後に自分の好きなアロマオイルを温めて、なるべくリラックスした状態で本を読んだり、漫画を読みます。最近はエッセイコミックにはまっていて、落ち込んでいる時やつらい時にはこの部分を読むぞと決めているページがあります。そのお話を読むと、「失敗してしまうこともあるよね」と自分に対して少し寛容な気持ちになれます。失敗したときには自分の嫌な部分がクローズアップされ、本を読んでも集中できないことがあるので、気軽な気持ちで読めるエッセイコミックがおすすめです。 

 

周囲のことを考えることもちろん大切ですし、相手の気持ちを推し量ることも時には必要です。しかし、その前に自分自身が機嫌のいい状態でいることが大切だと考えています。疲れた時、落ち込んだ時、自分を元気にする方法をこれからもっと増やしていきたいです。 

他の人はどうか知りませんが、私はボロボロなものが好きではありません。自分の部屋や学校の机が散らかっていると、不快な気持ちになります。無形資産にも当てはまると思います。

もう役に立たないものを手放すことは、私の人生における重要な教訓です。古い習慣、人間関係、考え方にしがみついていると、行き詰まってしまう可能性があることに気づきました。慣れ親しんだものを手放すのは難しいかもしれませんが、そうすることで、より良いことが自分の人生に入ってくる余地が広がることを学びました。

この旅は私に自分自身をもっと信頼することを教えてくれました。自分の成長に役立たないことにこだわらずに前に進んでも大丈夫だと理解するようになりました。手放すということは、何かを失うということではありません。それは、新しい機会、より健全な人間関係、より前向きな生き方のための余裕を作ることを意味します。

また、私は自分自身を信じているよりも強いことも学びました。役に立たなくなったものを手放すたびに、少しだけ回復力が増し、変化に対応できるようになったと感じます。結局のところ、手放すということは、自分を尊重し、自分には幸せで満たされる権利があると知ることなのです。それは、オープンな心で変化を歓迎し、これから先にあるものは私が自分の後に残していったものよりも良くなると信じていることです。

休みたいなぁ、のんびりしたいなぁと思うことは誰にでもあることですよね。最近は自分でもそういう気持ちになることが多いように思います。でも、昔はそんなに休みに“のんびり”したいって思ったかな?とふと考えました。

そもそも休みの記憶をさかのぼっても、休みは忙しかった。スキーやキャンプ、登山もした。大学生のころは、ラグビー部のマネージャーをしていたので講義の合間に部室の掃除、洗濯、大学への書類提出、短期バイトのメンバー集め、宴会の幹事。一体いつ休みだったのか…。教員になってからも、しばらく新体操の副顧問をしていたので、土日は練習か試合。卒業生にも、趣味は仕事でしょといわれるくらいでした。

 

 さすがにロボットではないため、最近は疲れたなぁと実感する年齢にもなりました。また昨今の働き方改革により、「休む」ことを大切にするようにと社会も変化するなかで、私自身の休み方は何だろうと考えました。休みだから「寝よう」と思っても、寝すぎるとリズムが崩れたりもするだけで、1日もったいなかった…ということもありました。そもそも、睡眠時間を増やしてもリフレッシュというよりも、それはあくまでも体力回復でしかなく、気持ちを切りかえたりすることはできませんでした。

 大好きな旅行は強制的に居場所を切り離すことができるので、気分転換にはうってつけです。全国のいろいろな場所で景色をみたり、歴史を感じたりすることでリフレッシュもできますが、移動のルートを考えたり、予算を検討したりするなど頭を使います。普段と違う悩みなので、それはそれで楽しいのかもしれませんが、最近、究極にリフレッシュできることに気づいてしました。それは…「無」になること!そして今の私が「無」になっている時間は、旅先の浜で“貝を採る(掘る)!”です。笑 

この白い貝は、磯ハマグリというと島の人に教えてもらいました。探しているときは、音楽も聴きません。波や風の音、1日に3回しか来ない船のエンジンの音をBGMにただひたすら砂浜を掘り続けます。最近は何も目印のない砂浜でみつけるコツもわかってきたような気がします。大漁の時は、宿泊先の朝ごはんにしてもらいます。採れても採れなくても、疲れて体を伸ばすと目の前には蒼の絶景!があると、疲れているけど、いろいろスッキリします。

 リフレッシュのしかたは人それぞれだと思いますが、切り替えって大切だなぁと実感する今日このごろです。そろそろ今年度も折り返しです。残り半年は3年生のカナダ研修、そして中学課程の修了が待っています。忙しいですが、みんなと一緒に頑張っていこうと思っています。

最後に効果的な休み方のポイントというのを見つけたので紹介します。貝採りは結構、あてはまってるなっ!て思いました笑 みなさんはどうですか?

 

今年度より、英語科教員として母校に戻ってきました。卒業してから13年ぶりに北星女子に戻ることができ、この教員ブログが開設されてから毎週楽しみに読んでいた私がまさか、書く立場になるなんて!感謝の気持ちでいっぱいです。初投稿で何を書こうかと結構悩みましたが、今回は「言葉の力(ちから)」について書きます。

言葉って、言った側はあまり覚えていなくても、言われた側ってずっと心に残っているものですよね。私にとって今年は特に言葉の大切さ、ありがたさを感じています。

前任校を辞めると決めた時、誰にも言えずにいました。お世話になった人がたくさんいる中で、何と伝えたらいいのか分からなかったからです。

ある時、職場の皆さんが知ることになりました。ほとんどの方から「お疲れ様」「大変だったね」「4月からどうするの?」様々な言葉をいただきましたが、その中でもある先生からもらった言葉が忘れられません。

「久保先生、卒業おめでとう」

そうか。私はこの学校を辞めるのではなく、卒業するのか。「卒業」とは、相手の旅立ちや門出を祝福する「はなむけの言葉」です。新しいところでも頑張るんだよ!とエールを送ってくれたんだなと思わせてくれました。

初めて出した卒業生に辞める報告をした時は、「自分は先生が元気であればどこで働いていても気にしないです」という言葉をもらいました。こんな言葉、言えるようになったんだな、大人になったなと、しみじみしました。

4月に北星女子に戻ってきた際は先生方から「おかえり」の言葉をもらいました。いつか、北星女子に戻ってきたいと思っていた私にとって、この言葉に心が温かくなりました。

言葉は人に多くの勇気を与えます。一方で、感情的な気持ちでポッと出た言葉は凶器となり、心に傷をつけてしまうこともあります。これからたくさんの人と関わる中で、自分の肝に銘じていかなくてはいけないと引き締まる思いです。

私自身、もらった言葉を大切にしてこれからの北星女子での毎日を大切に過ごしていこうと思います。

 以前のブログで僕は「おもちゃドクター」であることについて述べた。いまでもこの活動は続いている。ただ、子供たちが大きくなるにつれ、修理するものが変わってきた。最近修理したのはお兄ちゃんの自転車だ。彼の自転車には電池式のライトが付いている。僕はこれがちょっと不安だった。なぜなら彼はよくライトを消し忘れるからだ。電池がなくなったとき,塾の帰り道が怖い…そう思った僕は発電式のライトを取り付けることにした。ライトを買ってきて、取付位置の確認をした。ところがこれがなかなかうまくいかない。取付位置が決まったら、今度は取付方法だ。手持ちの部品であれこれやってみたがうまくいかない。

 近所のホーマックで合いそうな部品を購入し再挑戦…それでもダメなのでAmazonで「溶接並みの強さ」を持つ接着剤を購入!ばっちり固定された…はずだった。1週間もたたないうちに「お父さん、ライト外れた!!!」と嬉しそうな息子。まだまだ修行がたりません。

 そうこうしているうちに,自転車は彼には小さくなってしまったので,妻が以前使っていたロードレーサータイプの自転車に乗り換えることにした。タイヤの空気圧をチェックし,チェーンにオイルをさす。ハンドルのガタつきを確認し,スポークの確認…しばらく使われていなかったので、点検項目がたくさんある。そこで気がついてしまった…。「ライトがない!?」よみがえる悪夢…今度はうまくつけられるのか?

  僕はあれこれと物を作ることや修理を楽しんでいる。その原点は小学生にある。はじめて分解したのは黄色い目覚まし時計だ。もちろん組み立てられる訳もなく,時計はバラバラのままだった。しかし,怒られなかった。「次はちゃんと組み立ててごらん」と父親から一言。あのとき父親の一言が無かったら,僕は色々分解・修理をすることと無縁の人生を送っていっただろう。だから父に感謝している。

今,僕の目標のひとつに「キャンピングカーをつくる」ことがある。本格的なものはできないが,自分好みの車中泊仕様(釣り仕様)にしていて,少しずつ進行している。今後どれだけの時間と手間がかかるのか心配ですが,楽しみながら制作しています。

そうそう,安心して下さい!車内の後付けライトも,ちゃんと点灯してますから!

毎年、夏のこの時期は我が家の「生き物」たちが増えます。だいたいは「何かを育てたい」という意欲の強い息子の熱意に押されてのことですが…。現在の家族はクワガタ3匹、カブトムシ2匹(カブトムシは先日開催された北星バザーでオスとメスのつがいを購入しました!とっても元気!)、フナ1匹、ウサギ1匹。それに息子が外で育てている野菜たち。毎日大切にお世話しています。

考えてみれば、私は、「生き物」のお世話は得意ではないまでも、そんなに苦ではありません。それは、幼少期から常に周りに犬や猫たちがいたからかもしれません。今まで関わってきた犬や猫たちからは、本当に多くのことを学ばせてもらいましたが、特に忘れられないのは犬の「クロ」と、猫の「クロ」です。

私が5才くらいのとき、当時住んでいた家の物置に、犬の親子が住み着いてしまったことがありました。黒いオス犬と、白いメス犬と、その子どもであろう子犬と。住み着かれても困るので、両親は最初その3匹をなんとか追い出そうとしました。けれど、3匹ともとても穏やかで、子犬もいるし、季節も冬だったので、しばらく様子をみることにしました。あまりかわいがると情が移ってしまうので、「クロ」「シロ」と名前はつけても3匹の前では呼ばないようにして、家族みんなで家の窓から見守っていました。3匹の中でも「クロ」は賢い犬でした。ごはんをあげても、自分は食べようとせず、シロと子犬が食べ終わるまで待ちます。そして、夜は物置の中ではなく、わざわざ物置の外に出て、物置の戸の前で寝るのです。クロの毛が白く凍るくらいの寒い冬の夜です。どんなに寒くても、雪が降っても、クロは戸の前から動きませんでした。「ああやってシロと子犬を守っているんだろうね、健気だねえ」と話す両親の言葉を聞きながら、当時5才の私の脳裏に、雪に降られながらシロと子犬を守るクロの姿は強烈に焼き付きました。春になると、いつしかその3匹はいなくなってしまったのですが、あのクロの姿だけは、今でも鮮明に覚えています。

中学生の時、一番多いときで、家には15匹の猫がいました。一番の古株は黒猫の「クロ」。泰然自若のたたずまいで、どっしりと構え、周りの猫たちから一目置かれているような風格のある猫でした。新入りの猫がクロにあいさつしに行くと「よく来た」とばかりにゆったりと頷き(…そんな風に見える)、怖いもの知らずの子猫がクロにじゃれつくと軽く尻尾でいなし(…そんな風に見える)、とにかくかっこいい猫でした。さて、猫が15匹もいると、ごはんの時間は大変です。われ先にとごはんに群がり、すきあらば隣の猫のごはんを奪い…という感じでてんやわんや。しかし、クロだけは違います。他の猫たちがごはんを食べるのをじーっと見守り、自分以外の猫たちが食べ終わると、やっと立ち上がり、残り物をゆっくりと食べるのです。その姿は中学生の私が見ても拝みたくなるほど素敵で、クロの人生哲学(?)から、日々学ばせてもらっていました。

…犬の「クロ」も、猫の「クロ」も、動物の本能のようなものでそれぞれしていた行動なのでしょう。けれど、その姿から教えられたことは多く、その教えは私という人間の土台の一部にしっかりと組み込まれています。弱いものや小さいものを守ること、受け入れること、見守ること…。言葉ではなく、動物たちの行動と姿から教えてもらいました。

「クロ」と「クロ」を思い出すと、なんだか温かい気持ちになります。ちょっと優しい気持ちになれます。その優しい気持ちを忘れずに、日々過ごしていきたいものだと思っています。

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