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校長・教員ブログ

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土曜日の朝です。目覚ましが鳴ると、私はただベッドの中にいたいと思う。自分のベッドの中は暖かくてリラックスできる。でも、ベッドから出れば、下で何か特別なことが待っていることを思い出した。
私はベッドから這い出て、コーヒーを飲み、歯を磨き、シャワーを浴びる。着替えているうちに、エネルギーレベルが上がってきます。家を出ると、足取りが速くなる。ガレージのドアを開けると、そこには私のバイクがありました。
なぜバイクに乗るのがそんなに好きなのかとよく聞かれます。バイクに乗らない人に説明できることではありません。それは、手首を動かすだけでエンジンが唸りを上げ、その力の大きさを実感できるからだと思います。車のようにただ見ているだけではなく、道の祭りに参加すること。風、虫、雨、におい、音。丘の上に乗って、頂上を越えてしまうのか、それとも単に空に飛んでいってしまうのかわからないことです。
私の乗馬歴は39年になります。私は39年間バイクに乗っていますが、バイクから多くのことを学んできました。学んだことは、言葉ではうまく表現できません。私にとってライディングは精神的な修行です。私にとってバイクに乗ることは精神的な修行であり、神や世界、さらには宇宙に近づくためにすることなのです。次の39年も楽しみにしています。

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私の名前は 佐野 羽美(うみ)。雑種の女の子。別海町出身。年齢は獣医さんがだいたい9歳 ~ 11歳だって言ってた。性格は超~びびり。人がたくさんいるのは怖い。特に子どもは苦手。犬を連れて歩いている人はまだ平気だけど、自分からできれば構わないでいてほしい。毎日、朝と晩に散歩に行くけれど、一番楽しい散歩は夜中に人も車もいない静か~な時間に飼い主さんと二人っきりで歩く時間。アスファルトよりも土や葉っぱの上を歩くのが気持ちいい! 雨も気にならないし、雪は大好き! ふわふわの雪を食べたり、掘ってみたり、興奮してつい走っちゃう。台風でも吹雪でも毎日かならず散歩に行く。でも、ある程度歩いたら、できるだけ早く家に帰りたい。私の家。私の家には私専用のケージとベッドがある。ふかふかのベッド。誰にも邪魔されずに横になっていつでも好きなだけ眠っていられる。新鮮な水がいつでも飲めるし、毎日、カリカリのフードに茹でた野菜や好物のササミや鹿肉がのったおいしいごはんが出てくる。デザートやおやつもついてる!

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今の家に来る前は長沼の認定NPO法人である動物愛護団体「しっぽの会」に他のたくさんの犬や猫と暮らしていた。そこに来る前は道東の別海町にいた。飼い主はいない。家もない。人につかまるのは怖い。他の野犬や野生動物に襲われるのも怖い。いつもビクビク、気を張ってぐっすり眠ったことがない。いつもお腹が空いていた。何とか生き延びてこれた。ある日、赤ちゃんを産んで、かわいい男の子が6匹のお母さんになった。お乳はあまり出ない。人間が来た!逃げたかったけど、まだ目も開いていない赤ちゃんたちを置きざりにはできない。人間に捕まって、役場に連れていかれて、もうだめだと思っていたら、町の人たちが世話をしてくれて気がついたら、「しっぽの会」で安心して子育てすることができていた。助かった! 子犬たちが一人前になって、みんな優しい里親さんが決まって、家ができた。私は臆病で人も怖いから、誰かきてもすみっこで震えてた。吠えることもできなかった。でも、少しずつ会のスタッフやボランティアの人と散歩の練習をした。

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ちょうど4年前、私にも家ができた! 飼い主さんは数か月の間、週末になると私に会いに来て、一緒に散歩するようになった人だ。初めは知らない人と歩くのは緊張して嫌だったけど、だんだん慣れてきた。急に触ったり、大きな声をだしたり、無理に引っ張ったりしない。私が嫌がることはしないから悪い人ではないと分かった。子育ても終わったから、今度は私がこの家の子になってもいいのかなー。20179月、私を迎えにきてくれた。不安はたくさんあったけど、札幌にやってきた。どきどき。きょろきょろ。

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私のケージからリビングが全部見える。私のベッド。ピンクでふかふか。新しいリードと赤いハーネス。これは何だろう? 遊んでいいの? 犬のおもちゃだって。振り回してみよう。ブンブン。ちょっと破れちゃったけど、楽しい! おもちゃはすぐボロボロになっちゃったけど、飼い主さんは笑って見てる。私も嬉しくてしっぽをぶんぶん回してみる。ヘリコプターみたいに。――― それから毎日、散歩して、おいしいごはんを食べて、新鮮な水を飲んで、ブラッシングですっきりしたら、ゆっくりぐっすり私のベッドで眠る。静かな時間。飼い主さんの車の音! 帰ってきた!玄関まで迎えに行こう!「おかえり~、ちゃんとお留守番してたよ~」ぶんぶん。なでなで。ぶんぶん♪ そういえば、『犬の十戒』って知ってる? 私の飼い主さんは絶対守るって誓っていた。

 

『犬の十戒』 (「The Ten Commandments of Dog Ownership)

1   私の一生は、10年〜15年くらいしかありません。ほんのわずかな時間でも、あなたと離れていることは辛いのです。私のことを飼う前にどうかそのことを考えてください。

2   私が「あなたが私に望んでいること」を理解できるようになるまで時間が必要です。

3   私を信頼してください。それだけで私は幸せです。

4   私を長時間叱ったり、罰として閉じ込めたりしないてください。あなたには仕事や楽しみがありますし、友達だっているでしょう。でも、私にはあなただけしかいないのです。

5   時には私に話しかけてください。たとえあなたの言葉そのものはわからなくても、私に話し掛けているあなたの声を理解しています。

6   あなたが私のことをどんな風に扱っているのか気付いてください。私はそのことを決して忘れません。

7   私を叩く前に思い出してください。私はあなたの手の骨を簡単に噛み砕くことができる歯があるということを。私はあなたを噛まないようにしているということを。

8   私のことを「言うことを聞かない」「頑固だ」「怠け者」だと叱る前に、私がそうなる原因が何かないかとあなた自身考えてみてください。適切なごはんをあげなかったのでは?日中太陽が照りつけている外に長時間放置していたのでは?心臓が年を取るにつれて弱ってはいないだろうか?などと。

9  私が年を取ってもどうか世話をしてください。あなたも同じように年を取るのです。

10  最期の旅立ちの時には、そばにいて私を見送ってください。「見ているのがつらいから」とか「私のいないところで逝かせてあげて」なんて言わないでほしいのです。あなたがそばにいてくれるだけで、私はどんなことでも安らかに受け入れられます。そして、どうか忘れないでください。私があなたを愛していることを。

 皆さんの好きな遊びは何ですか?小学校や中学校、年代によって様々なものがあると思います。大人の皆さんは、子供のころに流行っていた遊びは、何でしょう?もちろん年代によって違いはあったり、現代ではパソコンやスマホが流通しているので、特に子供たちにはネットでゲームをしたり、YouTube等で好きなアイドルやアーティスト、アニメなどの動画を見る人が多いかなと思います。コロナ禍の現在、お家で過ごして遊べるようなことは安全で良いと思います。オンラインでお友達とコミュニケーションを取ることも、容易に出来ますね。とても便利ですね。

 しかし、外で過ごすことも魅力的であると、私は感じます。私の子供時代を振り返ってみると、家で弟や友達とテレビゲームで遊ぶことも好きでしたが、やっぱり外へ出て体を動かすことが、何よりも楽しかったと思います。小学校時代は、近所の公園でどろけい、野球やサッカー、冬は雪合戦に熱を注いでいました。そんな子供時代の思い出を最近は、とても懐かしく感じる瞬間が多いです。私には2歳になる息子がいます。息子は公園で遊ぶのが大好きで、いつも「今日はどこに行きたいの?」と私が聞くと、必ず、「こーれん!こーれん!(公園のこと)」と返してきます。時間があるときには、息子を連れて近所の公園に行くのが日課になっています。子供たちがたくさん遊んでいる時間帯は避けながら、午前中の早い時間や夕暮れ時に行くことが多いですね。息子が好きな遊びは、滑り台、ブランコ、ジャングルジム、砂遊びなどなど。その様子を私は危険がない限り、基本は見守っています。その様子の中で、大人になっていろいろな魅力を感じます。滑り台やブランコは、誰かが使っているとその子が使い終わるまで、順番待ちをしますね。まだ息子が1歳の時には、自分の番が来ないとぐずったりしていましたが、保育園などでも教えてもらっているんでしょうね。今では、誰かが使っていると「じゅんばんばん!」と言って、順番待ちをしている様子があります。人間の成長ってすごいと感じる瞬間でした。公園には、子供たちだけではなく、犬を散歩に来る人も多いです。うちの息子は犬を発見するセンサーがあり、犬がいた瞬間に、「ワンワン!いた!」と大きな声で言います。私犬は好きなので、かわいいなあと見ていると、飼い主さんがわんちゃんと触れ合いをさせてくれる時もあります。少しお話をしたりなど、コミュニケーションの場にもなっています。また、時間があるときには、家から離れた大きい公園に行くこともあります。木々やお花が綺麗だったり、広い芝生なども心が落ち着きます。車の音もあまりしないので、安らぎの時間にもなります。公園によって、景色は様々です。それぞれの魅力があると思います。

 子供から大人まで、公園はいろいろなことを感じさせてくれる存在ではないかと思います。近所の公園に行ってみるのも良いでしょう。Googlemapで「公園」と検索するだけで、現在地周辺の公園から、少し遠い場所まで、調べることもできますよ。様々な発見や出会い、自分のお気に入りの場所が見つかるかも知れません。もちろん感染症対策はしっかりと。帰ってきたら、手洗いを忘れずに。

新体操を始めたのは中学生になったとき、部活は体操競技がやりたかったけど「練習になるからと」顧問の先生、体操競技の練習のつもりで始めたのが私の新体操人生の始まりでした。当時の新体操は徒手体操に手具を持ったかんじのもの。今の新体操とは大きく違っていたように思います。1年生ですから文句もいえずいわれるままに一生懸命練習した記憶が有ります。その後、新人戦からは念願かなって体操競技に没頭しました。得意種目は床運動と跳馬でした。ですが頑張りすぎて怪我をしてしまい大会に出られたのは3年生の最後の中体連でした。思うような演技が出来ず散々な結果、では高校生になったらと…ここでも体操競技部に入ろうとしたら、学校では専門の先生がいないという理由で新体操を薦められます。

私のやりたいのは体操で新体操ではない!。なぜかと聞かれたとき中学のときの団体でとても嫌な思いをしたからと伝えたら個人の種目をするように勧められ、その時入部した1年生のほとんどが退部しており残っていたのは私ひとり(どうしよう私が辞めたら部活がなくなるかも…どうしてそう思ったかはわかりませんが)とりあえずやってみるか。ここではじめて自分の意志で新体操をやることになりました。前置きが長くなってしまいましたが、3年目にしてやっとです。自分でやると決めてからは何にも優先して新体操やめて行った仲間にもう一度声をかけひとり、興味のありそうなクラスメイトを誘い二人目、マネージャーならと言ってくれた友人と先輩が3人で体操部再出発。人生何があるかわかりません。いまのように社会体育、ジュニアクラブが沢山ありどんなスポーツも小さな時から選んでやれる環境ではなかったので学校の部活が全てでした。専門のコーチがいるわけでわないので先輩方が教えに来てくれました。叉、年に1度、県の強化練習で東京から大学のコーチの方が指導に来て下さいました。その素晴らしいこと❤初めて本物の新体操を目の前に、さらにのめり込んでいきました。(こうなったら止まらないのが私です。)その後大学進学の時もあの指導にきてくださった方のいる大学へ、そしていまに至ります。自分が始めた頃の新体操とはずいぶん変わりましたが、指導できないから、わからないからでは生徒が可哀想、ルールの勉強も、審判の資格も他の人には…という思いでやってきました。最初はまるでやる気がなかった新体操との出会いでしたが、新体操を通してたくさんの人と出逢い、沢山の経験をすることができたのはやっぱりあの時の出会いがあったからなのでしょうね。

だから私はいつも思うのです。出会いはいつどんな時でも、その人にとって必然の出会いなのだから大事にしよう。いまの出会いが未来の貴方の大切な出会いになるかもですね。

 今まで普通にできていたことができなくなったり、生活のリズムや周囲の雰囲気が変わって、戸惑いや不安な思いを感じる時があるかもしれません。そんな今は少し意識をして自分のペースを守り、深呼吸をしたり体を動かしたり好きなことをして、それぞれ自分の心と体を守って欲しいです。皆さん、無理しすぎないでくださいね。それに加えて、私のおすすめはお祈りです。

 お祈りにも色々あります。かしこまったお祈り、人前でのお祈り、自分だけしか知らない切実な秘密のお祈り、友だちに語りかけるような気楽なお祈りなどなど。皆さんも、大きな何かに向かって祈ったことがあるのではないでしょうか。

 聖書には、私たちと世界を造られた創造主なる神がおられて、私たちの祈りにも耳を傾けてくださると書いてあります。優しい天のお父さんです。この天の父なる神に、私たちの正直な思いや願い事を打ち明けてみてはいかがでしょう。上手く話さなくちゃと考える必要はありません。子どものように素直な気持ちを伝えるのがコツです。

 すぐに祈った通りになるとは限りませんし、その通りにならないことの方が多いかもしれません。それでも、その祈りは確かに聞き届けられ、私たちが思う以上に覚えられていて、最善の時に最善の形で応えられることが多いと思います。それに、祈ること自体が、自分を取り戻す時間にもなるはず。ぜひともお祈りを通して皆さんの心が守られますように!

 最後に有名なお祈りを幾つか紹介したいと思います。高尚過ぎて私には…そう感じるかもしれませんがご心配なく!このようなお祈りもあるのだなということで。May God be with you!!

 「フランチェスコの平和の祈り」
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
 理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって とこしえの命を得ることができるからです。

「ニーバーの祈り」
神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

「マザーテレサの祈り」
主よ、きょう一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために わたしの手をお望みでしたら きょう、わたしのこの手をお使いください。
主よ、きょう一日、友を求める人々を訪れるために わたしの足をお望みでしたら きょう、わたしのこの足をお使いください。
主よ、きょう一日、優しいことばに飢えている人々と語り合うために、わたしの声をお望みでしたらきょう、わたしのこの声をお使いください。 
主よ、きょう一日、人は人であるという理由だけで どんな人でも愛するために、わたしの心をお望みでしたら きょう、わたしのこの心をお使いください。

「夏が来れば思い出す 遙かな尾瀬 とおい空」(江間章子作詞、中田喜直作曲)

私が思い出す夏の思い出は、やはり吹奏楽コンクールです。生徒と一緒に泣いたり笑ったりする活動は何にも代えがたいものです。いまだに、「あの時のコンクールでは大変でした…」などと卒業生と思い出話に花が咲くこともあります。

本校の吹奏楽部は、部員数の減少にも負けず今年もコンクールに挑戦し、F.レハール作曲のワルツ「金と銀」を演奏して銀賞を受賞することができました。今回は、プロの作曲家に依頼し、生徒たちの様子を伝えた北星女子スペシャルアレンジで取り組みました。当初は参加することすら危ぶまれていましたが、コンクール後の振り返りでは「このままでは参加は無理」「みんなの意識も低くて」から「どんどん上手くなってきて」「みんな意欲が出てきて凄いと思った」「今までのコンクールで一番楽しかった」など、生徒たちの“大きな成長”というには言葉が足りない“驚異的な成長”を遂げることができたコンクールでした。

時期を同じくして行われた、東京オリンピック2020は感動の連続でした。感動の理由は何だったのでしょうか。メダルラッシュだから?勝っても負けても礼儀正しい選手たち?感動の理由は、アスリートたちの自己へのチャレンジする姿だったのではないか、と私は思っています。自己へのチャレンジが感動を与えたのは、オリンピアンだけではなく吹奏楽部員の頑張りも遜色ないものでした。決して長いとはいえない学生生活、みなさんも是非部活動に参加し、自己へのチャレンジを楽しんでみてはいかがでしょう。

本校では中学1年生の行事でJICA札幌の「ほっかいどう地球ひろば」を訪問します。海外協力隊で活動した方からお話を伺ったり,施設内の様々な仕掛けに触れることで,JICAの活動や世界の現状について,学びます。ちなみに,併設されているレストランカフェ「地球こうさてん」ではリーズナブルなお値段で,世界の様々な美味しい料理をいただけます。機会があれば,是非訪れてみてください。

さて,コロナ禍で大変な状況で中止や延期する行事も少なくないなかで,今年度も7月に私たちを受け入れてくださり,無事に訪問することができました(JICA札幌の皆さま,本当にありがとうございました!)。そこで,私も生徒と同様に施設を探索しているなかで,ある展示()に目が留まりました。それがこちら!

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その名も『くらして初めて知ったどローカルごはん 日本で作れる世界のレシピとお話』です。

中身をパラパラとめくってみると,世界各国の料理が地域別・国別にその国を訪れた人の思い出・エピソードと共に紹介されています。これは面白そう!と感じ,帰宅後に即座にAmazonで購入しました。海外旅行にも気軽に行けない昨今,掲載されている料理やエピソードを見るだけでも異国情緒を感じることができます。さらに,この本の素敵なところは,日本ではなかなか手に入りにくい食材を,簡単に手に入るもので代替し,レシピを紹介してくれる点です。

このように書いている私ですが,実際のところ,ほとんど料理をしないので,だいたいの料理は目で見て満足してしまっています。しかし,そんな私でも簡単に作れそうな料理がありましたので,挑戦してみました。

その名は「デレレ」

「デレレ」とは,アフリカのザンビア共和国やジンバブエの郷土料理で,現地の言葉でオクラ,あるいはそのスープを指すようです。材料はオクラとトマトと塩と重曹,以上!作り方もいたってシンプル,オクラを輪切りにし,鍋にイン!!軽く浸す程度の水と塩と重曹を入れ,軽く煮立たせたら,なるべく小さくカットしたトマトを鍋に入れ,鍋の底が少し茶色っぽくなったらできあがり!!!

そして,私が実際に作った「デレレ」がこちら(ちなみに,私は重曹すらカットしています)

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1日目()は煮詰めすぎて,スープというよりはソースのようになってしまったので,リベンジしたのが2日目()です。どちらにしても,トマトの甘みやオクラの粘り気や旨味が存分に感じられ,紹介してくださった方が書いていたようにホッとする味でした。また,2日目にはクリームチーズを投入してみたのですが,これもまた,絶品!!やはり,トマトとチーズの相性はバツグンですね。ここにご飯を入れたら,トマトリゾットみたいになって…と妄想も膨らみます。

 せっかく,本を購入したので,これからも簡単な料理を少しずつやってみようかな,と思いました。皆さんも是非,この本を購入し,世界に思いを馳せてみませんか。

大学生時代に夢中になっていたものの一つに「インド旅行」があります。どうしてインドだったのか、少し振り返ってみたいと思います。

インドへの伏線は、中学生の時にさかのぼります。

 中一の時、英語の担当の先生から紹介されたペンパル(手紙による国際文通)はインドの男の子でした。「どうしてインドの生徒?」と心に引っ掛かるものがありながらもやり取りをしていたことがありました。中二のある時、週刊漫画雑誌の広告にあったネパール(インドとチベットの間に位置していて、エベレストがあるヒマラヤ山脈でも有名な国です)をテーマにした写真集『カトマンズ発 失われた風景を求めて』(中村保)の広告が目に留まりました。特に印象的だったのは「いつかのあなた いつかの日本を そこでみた」というキャッチコピーでした。

「遠く離れた国で自分や日本がどうして見えるのだろう?本当に見えるのだろうか?見えるとしたらどんな景色なんだろう?」という疑問が自然にわいてきて、その広告を切り取り、今でも大事にしまっています。南アジアに興味・関心が高まっていったのはこの頃からでした。

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 インドを強く意識するようになったのは高校生の時です。インドに行ったことがある知人の方から『河童が覗いたインド』(妹尾河童)を紹介してもいました。舞台美術家の著者が、全編手描き(文字もイラストも)で描いている空前絶後のインド読本決定版とも紹介されているもので、何度も読み返しては、いつかは行ってみたいなと思うようになりました。よかったら覗いてみてください。

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そして、インド行きの決心をしたのは大学1年生が終わるころの3月でした。私は大学の寮に住んでいたので、3月は卒寮をひかえた4年生たちが卒業旅行先(当時は海外が主流でした)から次々と帰寮して、寮のあちらこちらで土産話を聞くことが恒例となっていました。その中にインドから帰国した先輩が「インドでの体験は人生観が揺さぶられるものだった。卒業旅行といわずにもっと早く、インドに行くべきだった。君も行きたい国があるなら学生うちに行くことをすすめるよ。もし、インドに行きたいのならば、行ってみるべきだよ。」と話をしてくれました。この話を聞いて、これまでの自分の体験や思いが次々と線で繋がり、迷うことなくインドへの旅行を決意することとなったのです。

その後、費用の工面等もあって、最初にインドに行ったのは大学2年生の2月でした。

自分の思いが他者との縁によって実現し、自分自身の世界が広がっていく貴重な体験でした。

 インド珍道記については、また別の機会にお話ししたいと思います。

 

 

こんにちは!(もしかしたら「こんばんは」や「おはようございます」かもしれません)今回、ブログの記事を担当します理科教員の三浦誠司(みうらせいじ)と申します。好きな食べ物は「ゆで卵」(ガチガチの固茹でが大好きで、口の中の水分が黄身にもっていかれる感じがたまりません。ちなみに、青じそドレッシングで食べるのがgoodです!)で、訪れてみたい場所は「タルヴァザガスクレーター」(トルクメニスタンにある燃え続ける大穴で、通称「地獄の門」と呼ばれています。知らない方は早速ネット検索だーー!!)です。ちなみに、愛犬の名前は「ぼりぼり」です。(動物病院では、受付のお姉さんに「三浦ぼりぼりく~~ん」と呼ばれます!)

産業革命以来、人間は石油や石炭などの化石燃料を燃やし、そのエネルギーを利用することで文明を発展させ、経済を成長させてきました。その結果、大気中の二酸化炭素濃度は産業革命以前に比べ約40%も増加し、地球規模での温暖化を引き起こしています。地球温暖化に歯止めをかけるためには、化石燃料に依存した社会から脱却する必要がありますが、現実的にはその依存を急激に止めることは難しいため、化石燃料の使用を許容しながら大気中への二酸化炭素の排出を抑制する必要があります。その方法として、二酸化炭素海洋隔離への関心が高まっています。簡単に言うと、「二酸化炭素を海洋へ溶かしてしまいましょう!」という方法で、二酸化炭素を液化し、海洋深くに投棄するというものです。海洋が極めて多量の二酸化炭素を溶かし込むことができるため、大量貯留の方法として有望視されており、また、工学的な困難さが少ない技術とされています。私は、20年ほど前にこの技術について勉強する機会があったのですが、仕事で携わっていた研究テーマが環境問題の側面を有していることもあり、興味を引かれて詳しく調べたことをおぼえています。そして、調べていくうちに疑問が浮かびました。それは、「前述した二酸化炭素の液化やそのプラント製造の過程で、多量のエネルギーを消費してしまい、二酸化炭素を排出してしまうのでは?」ということです。つまり、地球温暖化を抑制するための工法を構築する過程で、地球環境温暖化を促進しかねないのではないか・・・と。そう考えると、これまで人間が行ってきた様々な環境問題への対策が薄っぺらく感じ、何が地球環境改善への本質的な打開策になるのかが分からなくなりました(まぁ、私の勉強不足のためなのですが)。現在では、クリーンエネルギーの使用による化石燃料依存型社会からの脱却が急がれていますが、これについても地球環境破壊の要因が全く生じないと断言できるものではないと考えています。もしかしたら、人間が科学的発展を伴う生活水準の向上を求める限り、どんなに科学が進歩しても、地球環境の本質的な改善は無いのかもしれませんね。

今日、こんなことを知りました。オリンピックで優勝者が手にする金メダルは、金の割合が7.5%しかない。銀が92.5%で、金メッキが6gほどしかないのである。メダルの価値は、貴金属として売っても8万円程度である。もっとも、このメダルが純金製であれば、約300万円の価値があることになる。 東京オリンピックでは339個の金メダルが授与されたので、10億円になります。オリンピック委員会にとっては、ちょっと高すぎる金額ですね。金メダルを獲得することは素晴らしいことですが、元々のオリンピックではメダルは与えられていませんでした。優勝者にはオリーブの枝が与えられました。オリンピックは、紀元前1200年頃にギリシャのオリンピアで始まりました。この大会は4年ごとに開催され、ギリシャ帝国中から参加者が集まりました。紀元393年、キリスト教を信仰していたローマ皇帝テオドシウス1世が「オリンピックは異教徒の祭りだ」としてオリンピックを禁止するまで開催されました。その後、1,500年もの間、オリンピックは開催されませんでした。その後、18世紀から19世紀のヨーロッパでは、古代ギリシャの文化に魅了された人々が現れました。1892年、フランスの男爵ピエール・ド・クーベルタンは、オリンピックを見直すことを思いつきました。人々を説得するのに数年かかりましたが、クーベルタンが説得に成功すると、IOCが設立され、ギリシャのアテネで近代オリンピックの第1回大会が開催されました。この大会以降、優勝者にはオリーブの枝と銀メダルが贈られるようになりました。現在の金・銀・銅のシステムは、1904年のセントルイスオリンピックから始まりました。もし、あなたが金・銀・銅のメダルを獲得したら、どんな気持ちになるでしょうか?面白いことに、心理学者の研究によると、銅メダルをもらった人は、銀メダルをもらった人よりもはるかに幸せだということがわかっています。銀メダルを獲得した人は、金メダルを逃したことで非常に悔しい思いをしますが、銅メダルを獲得した人は、単純にメダルを獲得できたことを喜びます。私はこのような心配をする必要はないと思いますが。

英語版

I learned this today. The gold medal the winners at the Olympics get is only 7.5% gold. It is 92.5% silver with only a gold-plating of about 6g. The value of the medal would be about $800 if sold for its precious metals. Although to be fair, if the medal was made of solid gold, it would be worth about $31,000.  There were 339 gold medals handed out at the Tokyo Olympics, which would have come to $10,509,000. That’s a little too expensive for any Olympic committee to afford. Winning a gold medal is a great achievement, but there were no medals given at the original Olympic Games. Winners were given an olive branch. The Olympic Games started in about 1200 B.C. in  Olympia, Greece. The games were held every four years and contestants came from all over the Greek Empire to take part. The games ran until 393 A.D. when the Roman Emperor Theodosius I, who was a Christian, banned them because he thought the Olympic Games were a pagan festival. There were no games for 1.500 years. Then, in Europe in the 18th and 19th centuries, people became fascinated with ancient Greek culture. In 1892, a French baron, Pierre de Coubertin, had the idea of reviving the Olympics. It took him a few years to convince people, but, when he did, the IOC was formed and the first Olympic Games of modern times were held in Athens, Greece. In these games and the following, winners were given olive branches and silver medals. The gold, silver, bronze system we have now was started in the 1904 St. Louis Olympics. How would you feel if you won a gold, silver, or bronze medal? Interestingly, studies by psychologists have found that people who receive a bronze medal are far happier than people who win a silver one. Silver medalists are very frustrated because they missed a gold medal, while bronze medalists are simply happy to have won a medal. I don’t think I will ever have to worry about this, though.

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