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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ

冬休みが始まりました。長期休みは生徒にとって楽しみな時間であることは言うまでもないと思いますが、教員である私にとっても、ゆっくりと趣味に没頭できる時間をとることのできる貴重な期間です。ビーズアクセサリーづくり、けしごむはんこづくり、編み物、書道、漢字検定1級取得に向けた勉強、読書、カリグラフィー、硬筆ペン字……なんといっても、何かと時間のかかる趣味の多い人生です。一日が40時間くらいあれば……と何度思ったかわからない日々を過ごす私には、冬休みは最高の時間を過ごすことのできる機会です。

本当は全ての趣味において私を魅了する所以を語りたいところですが、紙幅に限りがあるので、今回は人生の大半に渡り、関わってきた書道に絞ってお話します。

 

書道との出会いは小学1年生の夏、お隣のお姉ちゃんが通っていた習字教室に通い始めたことでした。その後、高校生まで習字は続けていましたが、部活に入り、本格的に力を入れ出したのは大学2年になってからでした(中高時代は帰宅部でした)

大学で書道部に入ったことで、私の暮らしは大きく変わりました。書道の授業の時間の他にも、先生に声をかけていただいた展覧会に出すために徹夜で書き続けたり、ほかの授業の合間に部活の友だちと作品書きをしたりと、趣味の範疇を超え、書道が生活の中心になっていきました。

そのような日々を過ごす中で、だんだん、習字で作品を作るのと、書道で書作品を書き上げるのには、違いがあるように感じ始めました。ただ、きれいに書ければよいわけではなく、一枚の紙の中に、自分の表現したい世界を作る。納得のいく作品ができるまで何十回も、下手すると何百回も書き続ける。書道は追求の美だと感じ、魅了されてゆきました。

また、何より書道のすごいところは、何千年も前に書かれた作品が、21世紀を生きる私たちを感動させる力を持っていることだと思います。一番、書ってすごい!と感動したのは、大学4年の時です。就職試験で東京に行った際に上野の国立博物館で、小島切という仮名の作品展示を見る機会がありました。約千年以上前に書かれた線が、ほの暗い展示室で鮮やかに、ありありと私に迫ってくるかのように輝いて見えました。千年前に書かれた文字が、長い時を経ても、人を感動させる力を持っているということに激しく心を揺さぶられた記憶があります。

古い作品だけでなく、現代の書にも同じ力があります。どこがすごいという説明抜きに、作品を目の前にした時に圧倒されて、言葉を失ってしまう。いつまでも作品が頭に強い印象を残し、思い出すと「すごいなあ」とじわじわと感動が押し寄せる。そんな作品にも何度も出会うことができました。

 

大学を卒業し、社会人になる時に先生に「まずは10年続けること。仕事や自分の生活が忙しい中でも10年やめずに頑張れれば、その後は一生続けられるから」と言われました。その言葉を支えに、必死に仕事の合間や休みの日を書道に入れ込んだ10年を過ごしました。残念ながら、10年経った頃にちょうど子どもを産んでからは、すっかり以前の書に対する勢いは衰え気味で、最近は月に一度、競書に出す作品書きをしたり、部活の際に部員たちと書いたりする程度しか時間を取れなくなってしまいました。現在は趣味と呼ぶのにふさわしい状態です。

今の私の目標は、「細く長く続けること」。今はなかなか時間を取れなくても、細く長く続けていれば、いつかまた、ゆっくりと書道に向き合う時間を作れる日が来るかもしれない。そして、いつか、自分の書いたものが、誰かの心に残るような作品を書けるようになりたい。そんな気持ちで今は大切な趣味の一つとして書道と付き合っていきたいと思っています。

2021.5.21木村先生のブログ 

「40歳を過ぎ私の体にも陸上では一切必要とされていない浮き輪がおなか周りについてきた。」全く以って同感である、、、、、、

20202月後半から休校、そして4月やっと新年度がスタートできたと思いきや、またもや休校。

教室で声を張り上げる授業もできず、部活もなく、在宅勤務も増え、食べすぎないようにと気をつけてはいたつもりだが、やはり不必要な浮き輪が膨れてきた。

お家時間が増え、気持ちはへこむが、浮き輪はへこまない。

これではだめだと「走る」ことを決意。元々野球人の私にとっては走ることは野球をするためのトレーニングの1つで「仕方なく」やっていたものである。だから決意といっても決して無理はせず、きつかったらすぐ歩く、休むことを自分の中のルールとした。

 1日目、やはり走り始めてすぐに息が苦しくなる。赤信号が待ち遠しい。あのスーパーまでは走ろう!!と決め、そこにつくと走るのをやめ散歩で帰宅。ちなみにどのくらい走ることができたのかと無料アプリ「キョリ測」で調べてみると「1km」。「これだけ?!」「まあそんなものだろう」

 同じコースで3日間。そして4日目の朝、突然かかとに激痛が走った。筋肉痛とは違う謎の痛み。学校に行くにも足を引きずるような歩き方。理由がなんとも情けないので、先生たちにバレないように過ごす。「まあ1日安静にすれば治るだろう。」ところが、この痛みが1週間続いた、、、、、

やっと痛みがなくなり、ジョギング再開、しかし根本的に足の筋肉がないから痛みがでてしまったのだと思い、まずは「歩く」すなわち「散歩」から始めることを決めた。毎日60分、学校に出勤するときに遠回りをしたり、近所でも普段あまり使わない道を歩いてみたり、あまりいいことではないかもしれないが、宮の森の高級住宅街を見てみたり(もちろん不法侵入などはしてないです。)

約1か月、60分を70分、80分、90分と時間を増やしながら「散歩」を続けた。夜「パパ散歩は?」と娘に言われるほどになった。

そうして、「あの信号まで走ってみようかな」「あの店まで走ってみようかな」と少し「走る」ことを途中に入れることにした。また足に痛みがくることは避けたいので、決して無理はしないという自分のルールは守りながら、「今日は5分走ってみよう。」「今日は10分走ってみよう。」と走る時間を増やしていった。あるブログで「有酸素運動の場合、開始してから20分後から脂肪が燃焼する」と書いてあり、20分以上を1つの目安として、「今日は倍の40分走れた!!」なんてことを考えながら走る(ときどき散歩)ことを続けた。

こういう生活を続けて約3か月、ついにやってきた「北海道の冬」、、、、

この生活の中で口癖ができた。口癖と言っても心の中の独り言だが、「せっかく~から」。正直走るのが面倒だなと思うとき「せっかくランニングシューズ買ったから」、疲れてきて歩きたくなったとき「せっかく浮き輪がへってきたから」、北海道の冬、外はマイナスの気温のときや大雪の降った次の日など「せっかく冬用シューズ買ったから」と自分に言い聞かせるように「せっかく~から」を心の中でつぶやきながら走った。そうして、冬が終わり新年度が始まった。ところで自分はどれくらいの距離を走れるようになったのだろう?と日によって距離は違うもののそのときの一番走れたコースをまた無料アプリ「キョリ測」で調べてみると「10km」。今も無理はしないルールで「せっかく1年続いたから」と心の中でつぶやきながら走っています。

 「ニーバーの祈り」と呼ばれるお祈りがあります。英語ではタイトルにも通り、The Serenity Prayerと呼ばれるものです。とても素敵な言葉ですので、紹介したいと思います。

O God, give us serenity to accept what cannot be changed,

courage to change what should be changed,

and wisdom to distinguish the one from the other.

神よ、

変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

見分ける知恵を与えたまえ。

 

 私はこのお祈りが大好きです。私は生徒や同僚にとても恵まれ、毎日を楽しくワクワクしながら送っています。(北星女子の生徒は冗談ではなく、本当に素敵な生徒ばかりで、授業するのが楽しくて仕方ありません!) しかし、やはり人生ですから、つらいこともあります。そのたびに、このニーバーの祈りを思い出して、乗り越えてきました。人生ではいろいろなことが起こりますし、その長さも人それぞれ違います。また、自分が育った環境、あるいは今置かれている環境も言わずもがな、異なります。その中で「自分がおかれた場所」ではなく、「自分がすること」に目を向けることが大切です。

 

たとえば、病気をもって生まれた子供が「自分には何もできっこない」とあらゆることを諦めて引きこもりになるのか、それとも自分の病気を治し、自分と同じような苦しみを持った子供が少なくなるように医学の道を志すのかでは、おかれた状況は同じでも、まったく違う生き方になるでしょう。みなさんは、どちらを選びたいでしょうか? 決して現状を嘆き諦めるのではなく、前向きに生きていきたいですね!

 

 世の中にはいろいろな名言がありますが、素晴らしい言葉や格言などには自分の背中を押してくれる力があります。私たちは学校の内外で多様な言葉のシャワーを浴びていますが、自分が勇気と元気を持つことのできる言葉を持っておきたいものです。

 2021年11月より、NHK朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」が放送されている。NHKラジオ英語講座を題材として取り上げたドラマは、おそらく史上初のことである。NHK語学講座を自習の教材として勧め、自らも学習してきた者として、興味を持って数話視聴した。生活の中に語学があり、その音に数分でも触れることは日常に彩りと楽しみを与えてくれるのだろう。物語は今後、英語が敵国の言語であった時代を乗り越え展開し、英語講座が辛い気持ちに寄り添い励ます存在としてますます重要な者となっていくだろう。

 物語のタイトルにもなっているカムカム先生こと平川唯一先生を始め、多くの名物先生がNHK英語講座で活躍された。平川唯一の講座が放送されたのは、1946年から家族を題材にした身近な放送は、大人気であった。先頃出版された『平川唯一のファミリーイングリッシュ カムカムエブリバディ』(南雲堂)は当時のテキストを基にした復刻版の教材である。連続テレビ小説をご覧になって、ご興味を持った方は是非手に取ってみて下さい。現代風のテキストの題材とは異なり、家族と話すための英語が展開されている。海外旅行が夢物語であった時代、居間で英語の音に耳を傾け家族と共に声に出して勉強するそんな風景が目に浮かんでくる。私が浪人生時代(2001年)にラジオ講座で聞いていたのは、松坂ヒロシ先生、遠山顕先生、岩村圭南先生であった。美しい音楽のような英語の発音と、楽しい雰囲気に自然と引き込まれた。その後も、NHKのテレビ英語講座で、投野由紀夫先生の『100語でスタート!英会話』シリーズは、コーパス言語学を活用した初めての講座で楽しみに視聴した。

 現在の高校生にも、伊藤サム先生『高校生から始める「現代英語」』や遠山顕先生『遠山顕の英会話楽習』などを勧めている。美しい発音や踊り出したくなるような素敵な韻律を奏でる講師の先生方には、いつも尊敬の念を抱いている。皆さん方も、音楽を楽しむのと同じように英語の音に心と耳を傾けてみてはどうだろうか。

先日の学友会機関誌にも報告したのですが、私たちの学校が125年間以上歌い続けてきた“校歌”の原点が見つかりました。本校の校歌の楽譜をよく見ると、作詞は永田方正(当時の漢文学の先生です)と明記されています。一方曲のほうはスコットランド民謡または時代によって不明と書かれてきました。何故そのようなことになったのかは明治初期から中期にかけての明治政府が行った教育事情によるところが大きいと感じています。

時代が明治となり、日本は欧米先進国と肩を並べるために国力を増強させる政策がとられるようになり、その柱のひとつに教育がありました。当然音楽もその一役を担うことになりました。優秀な若い学生たちが主にヨーロッパに音楽を学びに海を渡り、欧米で学び得たものを日本の音楽教育にも導入し、学校で多くの生徒が声を合わせて歌う日本独特の授業の形が作られていきました。

歌う曲の中で最も重要視されたのは歌詞の内容でしたが、その歌詞をどのような旋律(音楽)にのせて歌うべきかが課題でした。新しい日本を作り上げるためにそれまで日本になかった音楽に思いを込めることが求められましたが、西洋の音楽に触れてまだ歴史の浅い日本ではドレミファソラシドの音階からなる西洋音楽を土台に、日本の学校で児童生徒のための音楽として取り入れるには大変な苦労があったようです。そのような経過の中で、日本人が持つ感性に違和感なく受け入れられる旋律(音楽)がヨーロッパにあることに気づき、日本の学校音楽に唱歌として導入していきます。その音楽とはスコットランドで歌われていたものでした。日本で広く親しまれてきた“ほたるの光”“夕空晴れて”などの旋律もそれらの中の一曲です。スコットランドで歌われてきた歌には他の西欧諸国で一般的に使用している音階の“4番目ファ”と“7番目の音シ”を使わない曲が多いのです。私たちにも親しみが持てる旋律に、オリジナルな詩とは全く違った独自の内容を歌詞として盛り込み、完成度の高い日本独自の歌としていきました。私たちの校歌の誕生もその流れをくんでいると言えるでしょう。ですからどこかスコットランド民謡を思わせる旋律と感じて、校歌の旋律の由来を“スコットランド民謡から”として来たのでしょう。

今回校歌の旋律の原点を発見のために大きな働きをなさった方は“仁平のぞみさん”という方です。本校が北海道から貸与されていた校舎と校地を離れ、第二の校舎を建てる校地を探して北4条西1丁目の土地を入手するために奔走した人物、後に第6代校長となった仁平豊次のひ孫にあたる方です。仁平のぞみ先生は横浜にあるキリスト教主義の学校、捜真女学院中学高等学校で長らく音楽の教鞭をとられていた方です。本校の前校長の石原菊雄先生がイギリスに行かれた際に校歌の旋律の調査をされましたが見つけることが出来なかった校歌の原点を、仁平のぞみ先生がご自宅にあった古いキリスト教メソジスト派の讃美歌集を何気なく見ている時に発見されたそうです。私たちの校歌は讃美歌から取られたものだったのです。楽譜の表記も現在のものとは異なっていますので、音楽に精通している仁平のぞみ先生でなければ見過ごされたかもしれません。仁平のぞみ先生が本校の第6代校長仁平豊次のひ孫にあたる方で、私が北星の校歌の原点を探していることを話したのを覚えていてくださり、現在も歌い継がれている校歌のメロディーを覚えていてくれたことが大きな発見に至ったと思います。

これらの繋がりを考えると、ただ偶然だった、縁があったという言い方では表現できない神様の導きを強く感じています。

この話の続きは次回に…。

今日、こんなことを知りました。ティーバッグは、お茶を飲む世界では驚異的な発明でしたが、もともとは「茶葉入れ」と呼ばれ、無駄を省くために発明されたものでした。

中国でお茶を飲むようになったのは、紀元前2737年頃と言われています(伝説)。漢の時代(紀元前206年〜紀元220年)の中国の遺跡からは、急須が発見されています。唐の時代(西暦618年から906年)には、お茶は中国の国民的な飲み物となりました。ヨーロッパ人が最初にお茶を飲んだのは、中国に滞在していたポルトガル人宣教師でしたが、彼らは家に持ち帰らなかったそうです。ヨーロッパに最初にお茶を持ち込んだのはオランダの商人である。ジャワ島で茶を買い、1606年にオランダに到着したのです。

英語の「tea」という言葉は、おそらくオランダ人から伝わったものでしょう。マレー語の “the “か、ミン・チャイニーズ(中国南東部で話されていた言語)の “tê “から取ったのだろう。オランダ人はこの飲み物を「thee」と呼ぶようになり、それがイギリスに輸入されて「tea」となった。

チャールズ2世の妻、キャサリン・オブ・ブラガンザは大の紅茶好きで、彼女のおかげで富裕層の間で紅茶が流行した。これに目をつけた東インド会社が紅茶の輸入を開始した。紅茶は瞬く間に流行したが、大量には輸入されなかったため、非常に高価なものとなった。庶民の飲み物ではなかったのである。

1689年になると、紅茶は大量に輸入されるようになったが、政府は紅茶に課税することを決定した。課税率は119%と非常に高く、人々はまだ飲むことができなかった。密輸が一般的になり、合法的に持ち込まれた茶葉よりも多くの茶葉がイギリスに密輸されるようになった。1784年、政府はその愚かさに気付き、大幅に減税した。紅茶が急に安くなったのである。ちょうど産業革命の時期と重なり、都市部に移り住んだ人々が紅茶を飲むようになったのだ。お茶は庶民の飲み物になったのである。

お茶の作り方は難しくないが、いくつかの問題があった。ポットに茶葉を適量計量し、熱湯を加えて4分ほど蒸らし、茶葉を取り除いて注ぐのだ。難しいのは、加える茶葉の量と、茶葉をきれいに取り除くことです。計量スプーンがあるのは当然ですが、茶葉を入れすぎたり、足りなかったりすることがよくあります。また、抜けた茶葉はポットの側面に付着して取りづらくなり、カップの中に入ってしまいます。ストレーナーやインフューザーもありますが、それも洗わなければなりません。また、1杯のお茶を作るのも大変でした。また、一杯のお茶を淹れるのも大変で、大量の茶葉を使用しなければならず、結局、大量の茶葉を捨ててしまうこともありました。お茶の葉がもったいないし、お金ももったいない。

そこで登場したのが「ティーバッグ」です。ティーバッグを使えば、毎回、正確な量のお茶をポットに入れることができます。茶葉を蒸らすのも、茶葉を取り除くのも、とても簡単にできます。

最初のティーバッグは、1901年にRoberta C LawsonとMary Mclarenによって発明されました。それは、彼らが手で縫った綿の袋でした。それをカップに入れて、完璧な一杯のお茶を飲むことができました。彼らは1903年に特許を取得したが、製造してくれる人がいなかった。1908年、ニューヨークの茶商トーマス・サリバンが、小さなシルクの袋に入れたお茶のサンプルを送り始めた。袋は開けられるようになっていたが、顧客は開けずにそのままポットに入れていた。これが評判となり、注文が殺到したため、トーマス・サリバンは「これはいいことをした」と気付いたのである。

初期のティーバッグは、接着剤を使って封をしていたため、お茶の味に影響が出ていた。また、使用していた布は高価なもので、お茶の染み込みが悪かったのです。その後、いくつかの進化を経て、ようやくガーゼ製のティーバッグが登場し、糊を使わずに密閉できるようになりました。しかし、アメリカでは大流行したものの、イギリスではティーバッグは普及しませんでした。お茶の正しい飲み方ではない」と言われたからです。イギリスでティーバッグが定着したのは、1950年になってからです。1950年当時、ティーバッグの市場シェアは3%でした。今では、販売されている紅茶の96%をティーバッグが占めています。

ティーバッグは、ポットで1杯のお茶を作る際に、茶葉を多く使わずに作ることが非常に難しいため、茶葉の無駄を省くために考案されました。ティーバッグは1901年にRoberta C LawsonとMary Mclarenによって発明され、もともとは手縫いの綿袋でした。そして、これが今日私が学んだことです。

今から20年以上前の話。「結婚して良かったことは?」と生徒に聞かれ、「卵焼きを失敗せずに作れるようになったこと」と答えました。私の父はあまり卵焼きが好きではなかったので、実家暮らしの中で卵焼きにお目にかかるのは運動会の時くらい、あえて作る機会もありませんでした。ところが、夫は大の卵好き、加えて娘が三歳になると毎日のお弁当作りが始まり、自然、卵焼きを作る機会が増えていきます。

 

卵焼きは基本料理の一つですが、きれいに仕上げるのは意外に難しいものです。フライパンとの相性や油の加減もあり、何度卵焼きからスクランブルエッグへの変更を迫られたことでしょう。ぐちゃぐちゃ、ボロボロになって気持ちも荒む・・・元来不器用なので、苦手意識があります。しかし、作り続けていくうちに、「上手くいかない!」と思ってもなんとかかんとか、最終的には卵焼きの形に持って行くことができるようになりました。『継続は力なり』。習い事も部活動も長く続かなかった私にとって、卵焼きが上手に焼けるようになったことは、繰り返してやること、継続してやることの大切さを実感させてくれました。

 

今年5月のある朝、娘のお弁当にいれる卵焼きを作りながら、ふと「私って何回卵焼き焼いたかなぁ?100回?いやいやそんなもんじゃないか⁉」「いろんなアレンジしたけれど、結局定番の数パターンに落ち着くのねぇ~」。回想にふけってフライパンを見ると、あらら!!まとまらない・・・ここからは集中してなんとか挽回、無事にお弁当箱に収まりましたが、『慢心は人間の最大の敵』!何事も気持ち半分ではうまくいかないもの、集中しないとね。

 

卵焼き作りは人生の教訓にもつながることを教えてくれます。日常の些細なことからこそ、学ぶことは多いのかもしれません。今でも「料亭のよう・・・」とまではいえない我が家の卵焼きですが、娘たちにとっては「一番おいしい卵焼き」として、毎日のお弁当を支えてきました。そんなお弁当作りも次の3月で一旦終了の予定。どうやら、私にとっての「卵焼き」に替わるものを、探す時がきたようです。

 

1歳になって8日目、私の娘は人生の、初めの1歩を踏み出した。ああ、ついに歩けるようになったんだなあとか、ついこの前まで仰向けに寝っ転がっていることしかできなかったのになあ、とか色々考えたけれども、私は理科の教員なので、少し科学的に分析してみたいと思う。

 

彼女が歩くときの様子を観察した。まず地面に手をついて、お尻を上げてから頭を持ち上げ、上体を起こして立つ。ここからずっとぐらぐらしている。頭が重たいので、胸当たりに重心がある。前を見据え、右足を踏み出して、しばらくそのまま揺れて、次に左足ではなくまた右足を踏み出すこともある。右、左、と順番に足を出す無意識は、生まれた時から脳にプログラムされているものではないらしい。両手はパーのまま、顔の高さあたりで広げて、バランスを取っている。2歩から5歩ほど前に進み、バランスを崩して前に転ぶ。転んだショックよりも歩けた嬉しさが勝るのか、両手を前についたまま顔はニコニコしている。しばらくして、お尻を上げ、頭を持ち上げ上体を起こしてまた立ち上がる。

これを、彼女がほかのことに興味をうつすまで、もしくは疲れて立ち上がれなくなるまで飽きることなく繰り返す。

 

「歩く」ということは、意外と複雑な動きからなっている。私たちは普段まったく意識せずに、カバンを肩にかけながら歩いてみたり、少し早足になってみたり、顔を上げ空を見ながら歩いてみたり、信号でふいに止まってみたりするが、そこには非常にたくさんの要素が含まれる。ただまっすぐ歩くだけでも、右足を出して、体重をその上に移動し、地面に右足を付ける。勢いにのせて、同時に左足を出す。またその上に体重を移動する。地面に左足を付ける。また、右足を出すと同時に左腕を前に出す。反対の腕は後ろへ。足がついたら、両腕を反対向きに動かす。

簡単に分けても、これだけの動作を含んでいる。これらはいちいち考えているわけではない。いちいち考えながら動くと、動作がロボットのように、とても不自然になる。

 

私が大学3年生の時、基礎実験の時間にロボットのプログラミングと、動きのシミュレーションの実験をした。一人一台の、身長30 cmくらいのヒト型ロボットを組み立て、プログラムを打ちこみ、ロボットに転送してプログラム通りにロボットを動かす。手を上げる、立ち上がる、片足で立つ、床に座る、歩く、など人間が簡単にできる動作が課題とされていたが、これが本当に難しかった。特に歩くことは、私も含めクラスのほとんどの学生が時間内にできなかった。足をつくタイミングと、もう片方の足を持ち上げるタイミングが少しずれるだけでもロボットは転ぶ。また、足を上げる角度が大きすぎたり小さすぎたりしても、ロボットはつまずいて転ぶ。腕の振りが小さすぎると、足を上げるたびにロボットが回転してしまう。

「歩く」というたったそれだけのプログラムは、たしか100行を優に超えていた。当時、すでに割とスムーズに歩行することができていたASIMOは、どれほど緻密で繊細なプログラムを組まれ、どれほど気が遠くなるような回数の試行を繰り返したのだろうかと感服した記憶がある。

 

しかし、技術の革新は本当にすごいもので、もはやバク転やパルクールまで軽々とこなす二足歩行のロボットができている。「ロボットのような、とても不自然な歩行」は今となっては過去のもので、歩行や走行も実にスムーズ、服を着せてマネキンの顔でもはめたら普通の人間と遜色がないくらい、自然な動作をする。

近年、二足歩行ロボット以外にも、非常に高い段差を越えられたり、でこぼこの経路も進めたりする、災害救助などへの応用が期待される四足歩行ロボットや、人間の筋力を高めるパワースーツのようなロボットなど様々なロボットが開発されている。人間が簡単にできることがロボットにできない分、ロボットにしかできないことやロボットが人間の何倍も活躍できることがたくさんある。今後もいろいろなロボットが開発されて、私たちの身の回りでも利用されていくだろうし、ひょっとすると卒業生でも、これらの開発に携わる人が出てくるかもしれない。

 

娘のたどたどしい歩行を見ながらそんなことを考えていると、真鍋叔郎氏のノーベル物理学賞受賞のニュースが耳に飛び込んできた。研究者が熱意を失わない限り、科学の発展は続く。新しい時代を生きていく世代が、希望に満ちた人生を歩めますように。

「あの麒麟はこれですよ」と橋の上をカメラ片手にウロウロしている私に白髪の紳士が銅像を指さして教えてくれました。あの麒麟とは何のことかわかりますか?

そう、それは東野圭吾の小説「麒麟の翼」に出てくる麒麟のことです。加賀恭一郎シリーズのほとんどは映画化されているので知っている人も多いと思いますが、そのシリーズの「麒麟の翼」です。私がもっとも好きなシリーズです。

 では、「この麒麟」は、一体全体どこにいるのでしょうか?

答えは「日本橋」です。日本橋の高欄中央部にある青銅製の照明灯を飾っているのが麒麟の像なのです。麒麟とは、中国神話に現れる伝説上の動物で、外見は鹿に似ていて、顔は龍に似ていて、牛の尾と馬の蹄を持ち角が生えているそうです。あくまでも想像上ではありますが。ただ日本橋の麒麟は、「翼が生えている」日本橋オリジナルの特徴を持っています。日本橋は、日本中の道路の起点でもあり、「日本橋から飛び立つ」という意味を込めて翼が付けられたと言われています。まさしく、その思いが叶うような勇ましさにあふれています。

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さて、話しは変わりますが、我が家では東京に出かけることが本当に多いです。どこに行くにも必ずと言っていいほど東京経由で行きます。東京に寄ってから国内外に出かけていきます。なぜ東京経由なのかと言うと、日本橋周辺のお気に入りのお店に立ち寄るのが目的です。では、どんな目的があるのか・・・それは、それは美味しいものを食べるためです。美味しものを食べると幸せになりますよね?だから日本橋に行くのです。ここには美味しいものがたくさんありますが、まずは「榮太樓總本舗」で団子をたべます。日本橋のすぐそばにある文政元年から続く老舗和菓子店は、宝石店のようにガラスケースに団子たちが上品に並べてあります。その中でも鰹節がたっぷりかかったみたらし団子は絶品。しかもボリュームたっぷり。1本で満足の一品です。もちろん店内で食べることが出来るのでお茶と一緒にゆっくり団子を堪能できます。帰りは必ず缶入りのお馴染みの榮太樓飴をお土産に購入します。この缶には歌川広重の浮世絵の江戸時代の日本橋が描かれています。食べ終えると奇麗に洗って小物を入れて大切に使っています。そして、もう一つのお楽しみは、「あなご専門店 玉ゐ」で穴子を食べることです。店の周辺には、白い煙と共に穴子のいい匂いが充満していて、近くに来ただけで食欲がわきます。日本橋の本店は、日本家屋の実に味のある建物で客足が途絶えることはなく、いつ行っても賑やかな店内です。穴子料理も絶品ですが、店員さんたちの丁寧な接客が料理をさらに美味しくしてくれます。そして、締めは、焼いた穴子の骨からとった特製のお出汁を注いだお茶漬けです。これで大満足、幸せな気持ちでいっぱいになります。そして、どちらのお店も出たら日本橋が見えます。1603年に木造の橋から石造りの二重二連のアーチ橋となるまでは、火事で焼け落ちるなどして何度も架け替えられました。現在の日本橋は20代目のようです。この長い年月を数えきれないほどのたくさんの人たちが往来してきたことを考えるだけでもワクワクします。私のように美味しものを食べるために日本橋周辺を散歩する人も少なからずともいるのでしょうね。以前のように、自由に旅行が出来るようになったら日本橋周辺を探検することもおススメですよ。その時は、日本史もちょっぴり勉強していると面白さが倍増します。こちらも合わせておススメです。

先週、誕生日がきた。授業中に「おめでとう~!」と生徒が言ってくれたので、大きな声で「ありがとう~。55才になりました!これからもGOGO!って感じです。」と元気よく言ったら、シーンと静まり返った・・。よくある空回り・・・。

宮崎駿の『風の谷のナウシカ』がヒットしたのは高校時代だった。ナウシカというカタカナ表記に、ナウマンゾウとシカがオーバーラップ、得体のしれない映画に思えて気持ちが向かわなかった。教員になってすぐ、たまたま見る機会があり、風を操るナウシカの真っすぐで清らかな在り方にすっかりとりこになった。

「風の谷」のモデルになった谷がパキスタンにあると知ったのはつい最近(といっても10年ぐらい前)のこと。どんなところなんだろう・・・と、ある夏行ってみることにした。

パキスタン北部の山岳地帯にあるフンザは人口15000人ほどの小さな村だ。トレッキング目的の旅行者やバックパッカーが訪れる、知る人ぞ知る観光地。急峻な山脈を縫うようにフンザ川が流れ、「風の谷」を形成していた。夕暮れ時にゲストハウスの窓から見えた「風の谷」は、うす紫色に染まった空に、白い小さな月が浮かび、ただただ美しくて涙がこぼれた。

翌日、4-5キロ離れた市場まで行ってみようと思ったが、路線バスもタクシーもない。現地のパキスタン人にきくと、「SUZUKIに乗れ~」と。鈴木?日本人と悟られて、からかわれてるのかと思ったが、パキスタンでは乗り合いバスのことを「SUZUKI」と呼んでいるそう。バス停はない。道端で手を上げたら止まってくれて市場まで乗せてくれるミニバンのこと。ちなみにメーカーはSUZUKIとは限らない。

10分ほど待つと、すでに7-8人の乗客を乗せた「SUZUKI」がやってきた。ぎゅうぎゅう詰めの座席に乗り込む。となりは私より年上に見える一人旅の女性、韓国人のナヤだった。英語が堪能で話がはずみ、いっしょに市場へ行くことに。「野菜を買ってキムチをつけるけど、手伝ってくれる?」と聞かれ、出会ってすぐ一緒にキムチをつけるなんて旅の醍醐味、「もちろん!」と答えた。その日は、韓国からの若者バックパッカーたちのために韓国料理を作る、と言ってはりきっていた。市場を二人でぶらつく。パキスタンに白菜があるはずもなく、結局カブをたくさん買い込んで、ナヤのゲストハウスへ。帰りも「SUZUKI」を止めて乗り込んだ。

ナヤの指示通りにカブをうすく切り、バスルームのバケツにどんどん入れていく。キムチの素は韓国食材店のある大きな町で買っておいて、ペットボトルに入れていつも持ち歩いているとのこと。真っ赤なキムチの素をバケツに注ぎ、カブを手で混ぜた。ご飯も炊いて、わかめスープと玉ねぎの酢漬けも作った。夕方になると韓国人の若者が4人でやってきて、私とナヤがつけた浅漬けキムチをおいしそうに食べた。パキスタンの山奥の村で思いがけずふるまわれた故郷の味に皆笑顔がこぼれた。ナヤも満足そう。私にはちょっと辛すぎたけど・・・。

ナヤは、定年を待たずに55才で小学校の教員を辞めてこの旅にでた。5年間の旅!体力がまだあるうちに一人旅がしたいと、夫と息子を説得し、退職を決め、フィリピンから東南アジアを回り、インドからパキスタンに入った。この先は中央アジア、中東そしてヨーロッパへ、あと3年かけてユーラシア大陸を横断するという。

2日後、帰路につく前にナヤに会いに行った。楽しかったキムチづくりのお礼を伝え、行く先々で人びとに愛情を届けながら逞しく歩き続ける彼女の旅の安全を祈り、ハグして別れた。

誕生日が近づくにつれてナヤのことを考えるようになった。5年間の旅はどうだったんだろう。旅を終えてどんな人生を送っているんだろう。今も沢山の人たちを幸せにしているだろうか。

「風の谷」で出会ったナヤに55歳の自分を重ねて、この先に広がる未来を空想してちょっとワクワクしている。

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