校長・教員ブログ
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久しぶりに中学1年生の授業を持ったので、自分の中学時代を振り返ってみた。中1の一番の思い出は盤渓にあったスクールハウスでの宿泊研修である。すでに建物は古くなっていたけれど、自然に囲まれた中でみんなでご飯を食べたり、夜はキャンドルサービスで静かに集中する時間があったり、授業担当以外の先生たちから話を聞くこともあった。屋根裏部屋(怖くて入ってない)もあった。同じ中央区内にあり、たった1泊だったけれど、秘密基地感もあって何とも特別な場所だった(だけど2泊は厳しい)。夜はクラスみんなで2階にある広間で寝る。初めは寝袋だったかな? 女子が30人以上もいて黙ってすぐに寝られるはずもなく、しばらくして先生たちが1階からやってくる。→ 怒られる。反省して寝るはずだけど、もう一回くらい怒られたような…。この辺の記憶が曖昧なのは中学の3年間でスクールハウスでの宿泊研修は5回くらいあったので、混ざってしまっているからだろう。毎回、夜は必ず怒られていたと思う(ごめんなさい)。スクールハウスについて教員になってから気づいたことがある。2階で話す声は1階にいる人にとてもよく聞こえること。かなり小さい声でも内容はわからずとも話しているのはすぐわかる。先生たちはずいぶん我慢して話させてくれていたんだ。それなのに気づかれていないと思って、楽しく小声で話していた。この小声で話していること自体がすでにおもしろくて笑える年頃であった。労作で山に道を作ったり、裏庭で北星カレーライスを調理したこともあった。食事の前の替え歌もあったっけ(突然変調して讃美歌が入る不思議な歌)。中学に入って初めて聖書を手にした私にとって、お祈りや聖書が生活の中にあることを頭ではなく感覚的に理解したのはスクールハウスでのすべてのプログラムを通してだったと思う。だから中学の緑の教室=スクールハウスは私のキリスト教との関わり方の原点となっている。
もう一つ、中学の時の経験が私の原点となっていることがある。それは英語の授業だ。Nativeの先生の授業は中1の時に週一回だけだったが、それでも当時の中学校で学校内に常に外国人の先生がいて、毎週授業が受けられるなんて贅沢な環境だった。一人一人の発音を聞いて丁寧に教えてくれたセイビアス先生。アメリカ人の女性の先生で放課後にジャージを着てバスケットボールをするのを見かけたこともあったので活溌な先生だった印象がある。発音を褒められると嬉しくて、何度も練習した。発音に関しては日本人の先生たちもみなその都度、発音方法を説明してくれたり手本を聞かせてくれたので、カタカナをふることなく耳で覚えるようになった。小学校6年のときには英語を習いはじめていたので、もともと英語は好きだったけれど、親の勧めではなく、自分の意志で英語科に進みたいと思ったのは中3のときに自由研究で英語のスピーチに取り組んでからだった。当時は高松宮杯(今は高円宮杯)全日本中学生スピーチコンテストに出場し、思いがけず北海道大会で優勝して全国大会に行くことができた。この大会ではスピーチ発表自体の記憶よりも、全国各地から集まった中学生が引率の先生や親とも離れて1つの旅館に泊まり、関東にある大学の学生たち(日本学生協会基金=JNSA基金・スピーチコンテストのOBやOGも多い学生グループ)が期間中のあらゆるサポートをしてくれた。私は秋田・石川・滋賀・京都・高知から来た中学生との6人部屋で、日本語を話すときにも方言と標準語を瞬時に使い分けていることに驚き、私が話す「~しょ」という語尾が方言であることを指摘されて初めて気づいたのもこの時だ(例「そんなことないっしょ」、「いいっしょ」など)。札幌は方言がないと思っていたから衝撃だった。夜は広間に(また広間)集まってまた部屋とは異なるグループに分かれてディスカッションをしたり、みんなで歌やゲームをしたり、大学生から学生生活のことを聞いたり、相談にのってもらったり。これは今でも忘れられない貴重な経験だった。英語を駆使して活動し、いろいろなことを知っている大学生を見て素直に「かっこいいなー、私もああなりたい!」と強く思ったし、もし関東の大学に進学していたら、その活動をしていただろう。全国大会では平均点しかとれなかったが、帝国ホテルのレセプションでは読売交響楽団による生の演奏を聴くなど、それまでしたことのない経験ができた。この時、自由研究で私のスピーチを担当し、スピーチ原稿を完成させ、毎日発音練習をしてくれた藤井先生、高校では秋元先生と吉田雅子先生、中1の時に教わった故 斎藤康子先生、北星でたくさんの英語の先生に習えたことは幸運であった。中学の英語(と数学)の授業では北星のオリジナル教科書を使い、年に1回、英語のスキットやレシテーション、スピーチを発表する英語フェスティバルみたいな行事もあり、そのひとつひとつが今の私の財産である。