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校長・教員ブログ

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 歴史は物語のような作り物ではありません。本当に起こったノンフィクションの世界です。今回は親子の愛情をテーマに、1つの話をしたいと思います。

時は戦国時代末期、場所は九州の大分県。話の主人公となる人物は、高橋紹運と立花宗茂の親子です。2人とも苗字は違いますが、血のつながった正真正銘の親子です。

高橋紹運は大友宗麟の部下で、同じく大友宗麟の部下であった同僚の立花道雪のことを、常日頃から尊敬していました。ある日、立花道雪は高橋紹運に、息子を1人養子としてもらい受けたいと相談を持ち掛けます。立花道雪には息子がいなかったため、このままでは立花家が断絶してしまうと考えたからでした。悩んだ末、高橋紹運は尊敬する立花道雪のためならばと、次男や三男ではなく、わざわざ長男を養子に出しました。この人物こそが立花宗茂です。

その後、立花道雪は亡くなり、養子の宗茂が立花家の家督を継ぎました。そんな中、南から島津の大軍が侵攻してきました。猛将である立花道雪はすでに他界しているため、北上する島津の軍勢と戦うのは、大友家の大黒柱であった高橋紹運と、その嫡子で立花家に養子に入った立花宗茂の親子でした。島津の大軍が侵攻してきたと聞いた大友宗麟は、すぐに大坂にいる豊臣秀吉に援軍を要請しました。秀吉は20万とも言われる大軍を動員してこれに応えます。対する島津軍の総大将である島津義久は、秀吉の大軍を迎え撃つためには、一刻もはやく九州を統一しなければならないと考えました。

当時、大友氏に残された領土は高橋紹運と立花宗成親子の守る岩屋城と宝満城だけでした。秀吉の援軍が来るまでは時間がかかります。そこで高橋紹運は、自ら進んで山の中腹にある小さな岩屋城に兵700余りを連れて入り、息子の宗茂には、山の頂上に建てられた堅固な城である宝満城に入るように命じました。立花宗茂は父親である高橋紹運に、岩屋城は捨てて宝満城に入って一緒に戦うように進言しますが、高橋紹運はそれを断ります。高橋紹運は、自分が息子の盾になることで少しでも時間稼ぎをし、秀吉の援軍が来るまでの間、息子のいる宝満城を敵に攻撃させないようにしようと考えたのでしょう。それが息子への最後の愛情でもあり、長男でありながら立花家に養子に行かせてしまった親としての贖罪だったのかもしれません。

 島津軍は4万余りの大軍で、岩屋城に攻め寄せてきました。高橋紹運は700人の城兵と共に奮戦します。そのため10日たっても岩屋城は落ちませんでした。これに焦った島津義久は、使者を立てて、降伏を勧めてきました。しかし、もとより死を覚悟している高橋紹運はこれを一蹴します。時間がたてば秀吉の大軍が九州に上陸します。ぐずぐずしてはいられない島津軍は、ついに総攻撃を開始します。城が包囲されてから2週間後、ついに岩屋城は落城しました。その際、高橋紹運は自害し、700余りの城兵は全員玉砕しました。しかしこの時間稼ぎにより、宝満城は島津勢を寄せ付けず、秀吉軍の上陸まで持ちこたえることができました。秀吉軍上陸の報を受けた島津軍は囲みを解いて撤退します。すると援軍の到着を待たずに、立花宗茂は城から討って出て、あっという間に岩屋城を奪取しました。この時に立花宗茂の脳裏を過ったのは、父の面影だったのではないでしょうか。

子の夢を自分の夢のように応援してくれる存在であり、子の身に危険が迫ったら自分の身も挺して命がけで守るのが親です。いつの世も、親が子を愛する姿は変わらないのかもしれません。

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