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校長・教員ブログ

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 もし、庭先の草花や室内の観賞用植物にも、「知性」があり、じっと私たちのそばで考えているとしたらどうだろう。多くの人々は「本当?」と驚きながら、「何を訳の分からないことを言っているのか」と打ち消し、そのようなことは相手にされないのが落ちだろう。しかし最近、このような従来からの見方を打ち消すような科学的な考え方が、関心を集めている。

 私が読んだ「植物は<知性>を持っているー20の感覚で思考する生命システムー」(ステファノ・マンクーゾ他著)には、こうある。植物には「脳」という器官が見当たらないから、私たちは植物に知性を認めてこなかった。しかし、人の脳も実際には単独で知性を生み出す魔法の器官ではなく、体から届けられる色々な情報提供により働く。一方、植物も人間と同様で、生存に必要な情報を環境から入手し、利活用してゆく。違いは、人間よりも動きがのろく、人間に備わっているような個々の器官(例えば脳や目や耳など)を欠いているだけなのだ、という。

 つまり、人間も植物も、それぞれ環境から情報を得て、生きるため適応していく存在だ。そうすると、「知性」を糧に環境適応するという意味合いは大差なく、共通する。それどころか、植物は私たち人間がいなくても生命を維持することができるが、私たち人間は、植物なしでは生きられない。植物による光合成から得たエネルギーを摂取しなければ、私たち人間は、いや動物であっても、たちまち絶滅してしまう。自力で動けない植物など下等生物だと感じるとしたら、それは単に人間中心主義のものの考え方の偏見である。

また、『土と内臓―微生物がつくる世界―』(デイビッド・モントゴメリー著)は、土壌の生産力から人体の免疫系まで、微生物の群集が動かしていると論じる。土中だけではなく人体を取り巻き、人体の内臓に生息する微生物に、実は私たちが多くを依存して生きていることは大きな驚きである。私たち人間の五感など、地球環境のほんの一部しか感受できないようになっていると知ると、謙虚に考えることが本当に大切だとつくづく思う。(854文字)

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