校長・教員ブログ
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まだ、若かったころ。
インド南部の小さな町に鉄道で降り立った。いつもながらの一人旅。すぐにリクシャー(バイクタクシー)のお兄ちゃんが客引きに寄ってくる。リクシャーは値段交渉をして乗るもの。まずは、お兄ちゃんがブロークンな英語で話しかけてくる。
「ユア ネーム?」
――「モエミ」
「グッドネーム!」(恐縮です)
「カミングフロム?」(あ、どこから来たかってことだ)
――「ジャパン」
「グッドカントリー!」(ありがとうございます)
「エイジ?」(あ、年齢きいてどうするんだろう?)
――「サーティスリー」
「マリッジ?[結婚してるのか?]」(なるほどーそういうことか)
「ノー」と答えると、真剣な顔つきになり直球がやってきた。
「ホワイ?」
わー理由まで聞くんだー。もうセクハラの線こえたー。
パーソナルな質問の嵐に度肝を抜かれながらも、「ホワイ?」に答えてみた。「ノー グッド メン アラウンド ミー(いい出会いがなくてねえ)」と、ジョーダンっぽっく言ったつもりが、彼はすかさず「ドン ウォリー、ファインド ユー、ナイス インデアンマン!」素敵なインド人を紹介までしてくれる・・・らしい。一気に仲人を買って出てくれた笑。「サンキュー」と答えると、次の質問は「アーユー ベジタリアン?」だった。結婚条件の第一位が食べ物なんだ。とても興味深い。確かに一緒に暮らし始めたら肉を食べるか食べないかは一大事だ。「アイム ナット ベジタリアン」と答えた。インドでは7割程度がベジタリアンなので、私の「相手」を探すのは大変だろうな・・・と思いながら、出会って数分でここまで私のプライバシーを深堀してくるこのインドのお兄ちゃんに脱帽。楽しいひと時となり、彼のリクシャーに乗ることにした。
20代後半でアメリカに留学していた時のことを思い出した。インドからの女子留学生と、アメリカに来て経験したカルチャーショックについて話した。私は、アメリカ人のルームメートの話し声が大きくて、大声で歌も歌うし、戸惑っていると。一方彼女は、「アメリカ人は何も質問してくれない」と。「家族のことや、生活のこと・・・私に関心を持ってくれない・・・寂しい」と。実は私もアメリカに3年住んでいて一度もアメリカ人から年齢を聞かれたことがなかった。年齢は実にパーソナルな事柄で、アメリカ人の研ぎ澄まされた人権感覚からすると尋ねることはタブー。彼女の話を聞いて、アメリカ人は困惑していた。「あなたを寂しくさせたのは申し訳ないけど、どこまで聞いていいのか私にはわからないんです。たとえば、家族構成を聞いてもいいの?」インドの彼女は「何でも聞いてください」と笑顔で答えた。
「愛の反対は無関心である。」他でもないマザーテレサの言葉だ。個人の領域にずかずかと入ってくるインドの人々に違和感を抱きながらも、一方で包み込むような愛を感じる自分がいる。個人主義を称えるグローバリゼーションの波がインドのそんな温かい精神性を奪っていくのも時間の問題かなと思うと、私もまた寂しい気持ちになる。人権と無関心。プライバシーと愛。問題はシンプルではない。でも、現地の人たちと直に出会って、考えて、自分に問う、それは気づきに満ちた楽しい営みであることは確かだ。
また、旅にでよ。