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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ  2021.11

先日の学友会機関誌にも報告したのですが、私たちの学校が125年間以上歌い続けてきた“校歌”の原点が見つかりました。本校の校歌の楽譜をよく見ると、作詞は永田方正(当時の漢文学の先生です)と明記されています。一方曲のほうはスコットランド民謡または時代によって不明と書かれてきました。何故そのようなことになったのかは明治初期から中期にかけての明治政府が行った教育事情によるところが大きいと感じています。

時代が明治となり、日本は欧米先進国と肩を並べるために国力を増強させる政策がとられるようになり、その柱のひとつに教育がありました。当然音楽もその一役を担うことになりました。優秀な若い学生たちが主にヨーロッパに音楽を学びに海を渡り、欧米で学び得たものを日本の音楽教育にも導入し、学校で多くの生徒が声を合わせて歌う日本独特の授業の形が作られていきました。

歌う曲の中で最も重要視されたのは歌詞の内容でしたが、その歌詞をどのような旋律(音楽)にのせて歌うべきかが課題でした。新しい日本を作り上げるためにそれまで日本になかった音楽に思いを込めることが求められましたが、西洋の音楽に触れてまだ歴史の浅い日本ではドレミファソラシドの音階からなる西洋音楽を土台に、日本の学校で児童生徒のための音楽として取り入れるには大変な苦労があったようです。そのような経過の中で、日本人が持つ感性に違和感なく受け入れられる旋律(音楽)がヨーロッパにあることに気づき、日本の学校音楽に唱歌として導入していきます。その音楽とはスコットランドで歌われていたものでした。日本で広く親しまれてきた“ほたるの光”“夕空晴れて”などの旋律もそれらの中の一曲です。スコットランドで歌われてきた歌には他の西欧諸国で一般的に使用している音階の“4番目ファ”と“7番目の音シ”を使わない曲が多いのです。私たちにも親しみが持てる旋律に、オリジナルな詩とは全く違った独自の内容を歌詞として盛り込み、完成度の高い日本独自の歌としていきました。私たちの校歌の誕生もその流れをくんでいると言えるでしょう。ですからどこかスコットランド民謡を思わせる旋律と感じて、校歌の旋律の由来を“スコットランド民謡から”として来たのでしょう。

今回校歌の旋律の原点を発見のために大きな働きをなさった方は“仁平のぞみさん”という方です。本校が北海道から貸与されていた校舎と校地を離れ、第二の校舎を建てる校地を探して北4条西1丁目の土地を入手するために奔走した人物、後に第6代校長となった仁平豊次のひ孫にあたる方です。仁平のぞみ先生は横浜にあるキリスト教主義の学校、捜真女学院中学高等学校で長らく音楽の教鞭をとられていた方です。本校の前校長の石原菊雄先生がイギリスに行かれた際に校歌の旋律の調査をされましたが見つけることが出来なかった校歌の原点を、仁平のぞみ先生がご自宅にあった古いキリスト教メソジスト派の讃美歌集を何気なく見ている時に発見されたそうです。私たちの校歌は讃美歌から取られたものだったのです。楽譜の表記も現在のものとは異なっていますので、音楽に精通している仁平のぞみ先生でなければ見過ごされたかもしれません。仁平のぞみ先生が本校の第6代校長仁平豊次のひ孫にあたる方で、私が北星の校歌の原点を探していることを話したのを覚えていてくださり、現在も歌い継がれている校歌のメロディーを覚えていてくれたことが大きな発見に至ったと思います。

これらの繋がりを考えると、ただ偶然だった、縁があったという言い方では表現できない神様の導きを強く感じています。

この話の続きは次回に…。

今日、こんなことを知りました。ティーバッグは、お茶を飲む世界では驚異的な発明でしたが、もともとは「茶葉入れ」と呼ばれ、無駄を省くために発明されたものでした。

中国でお茶を飲むようになったのは、紀元前2737年頃と言われています(伝説)。漢の時代(紀元前206年〜紀元220年)の中国の遺跡からは、急須が発見されています。唐の時代(西暦618年から906年)には、お茶は中国の国民的な飲み物となりました。ヨーロッパ人が最初にお茶を飲んだのは、中国に滞在していたポルトガル人宣教師でしたが、彼らは家に持ち帰らなかったそうです。ヨーロッパに最初にお茶を持ち込んだのはオランダの商人である。ジャワ島で茶を買い、1606年にオランダに到着したのです。

英語の「tea」という言葉は、おそらくオランダ人から伝わったものでしょう。マレー語の “the “か、ミン・チャイニーズ(中国南東部で話されていた言語)の “tê “から取ったのだろう。オランダ人はこの飲み物を「thee」と呼ぶようになり、それがイギリスに輸入されて「tea」となった。

チャールズ2世の妻、キャサリン・オブ・ブラガンザは大の紅茶好きで、彼女のおかげで富裕層の間で紅茶が流行した。これに目をつけた東インド会社が紅茶の輸入を開始した。紅茶は瞬く間に流行したが、大量には輸入されなかったため、非常に高価なものとなった。庶民の飲み物ではなかったのである。

1689年になると、紅茶は大量に輸入されるようになったが、政府は紅茶に課税することを決定した。課税率は119%と非常に高く、人々はまだ飲むことができなかった。密輸が一般的になり、合法的に持ち込まれた茶葉よりも多くの茶葉がイギリスに密輸されるようになった。1784年、政府はその愚かさに気付き、大幅に減税した。紅茶が急に安くなったのである。ちょうど産業革命の時期と重なり、都市部に移り住んだ人々が紅茶を飲むようになったのだ。お茶は庶民の飲み物になったのである。

お茶の作り方は難しくないが、いくつかの問題があった。ポットに茶葉を適量計量し、熱湯を加えて4分ほど蒸らし、茶葉を取り除いて注ぐのだ。難しいのは、加える茶葉の量と、茶葉をきれいに取り除くことです。計量スプーンがあるのは当然ですが、茶葉を入れすぎたり、足りなかったりすることがよくあります。また、抜けた茶葉はポットの側面に付着して取りづらくなり、カップの中に入ってしまいます。ストレーナーやインフューザーもありますが、それも洗わなければなりません。また、1杯のお茶を作るのも大変でした。また、一杯のお茶を淹れるのも大変で、大量の茶葉を使用しなければならず、結局、大量の茶葉を捨ててしまうこともありました。お茶の葉がもったいないし、お金ももったいない。

そこで登場したのが「ティーバッグ」です。ティーバッグを使えば、毎回、正確な量のお茶をポットに入れることができます。茶葉を蒸らすのも、茶葉を取り除くのも、とても簡単にできます。

最初のティーバッグは、1901年にRoberta C LawsonとMary Mclarenによって発明されました。それは、彼らが手で縫った綿の袋でした。それをカップに入れて、完璧な一杯のお茶を飲むことができました。彼らは1903年に特許を取得したが、製造してくれる人がいなかった。1908年、ニューヨークの茶商トーマス・サリバンが、小さなシルクの袋に入れたお茶のサンプルを送り始めた。袋は開けられるようになっていたが、顧客は開けずにそのままポットに入れていた。これが評判となり、注文が殺到したため、トーマス・サリバンは「これはいいことをした」と気付いたのである。

初期のティーバッグは、接着剤を使って封をしていたため、お茶の味に影響が出ていた。また、使用していた布は高価なもので、お茶の染み込みが悪かったのです。その後、いくつかの進化を経て、ようやくガーゼ製のティーバッグが登場し、糊を使わずに密閉できるようになりました。しかし、アメリカでは大流行したものの、イギリスではティーバッグは普及しませんでした。お茶の正しい飲み方ではない」と言われたからです。イギリスでティーバッグが定着したのは、1950年になってからです。1950年当時、ティーバッグの市場シェアは3%でした。今では、販売されている紅茶の96%をティーバッグが占めています。

ティーバッグは、ポットで1杯のお茶を作る際に、茶葉を多く使わずに作ることが非常に難しいため、茶葉の無駄を省くために考案されました。ティーバッグは1901年にRoberta C LawsonとMary Mclarenによって発明され、もともとは手縫いの綿袋でした。そして、これが今日私が学んだことです。

今から20年以上前の話。「結婚して良かったことは?」と生徒に聞かれ、「卵焼きを失敗せずに作れるようになったこと」と答えました。私の父はあまり卵焼きが好きではなかったので、実家暮らしの中で卵焼きにお目にかかるのは運動会の時くらい、あえて作る機会もありませんでした。ところが、夫は大の卵好き、加えて娘が三歳になると毎日のお弁当作りが始まり、自然、卵焼きを作る機会が増えていきます。

 

卵焼きは基本料理の一つですが、きれいに仕上げるのは意外に難しいものです。フライパンとの相性や油の加減もあり、何度卵焼きからスクランブルエッグへの変更を迫られたことでしょう。ぐちゃぐちゃ、ボロボロになって気持ちも荒む・・・元来不器用なので、苦手意識があります。しかし、作り続けていくうちに、「上手くいかない!」と思ってもなんとかかんとか、最終的には卵焼きの形に持って行くことができるようになりました。『継続は力なり』。習い事も部活動も長く続かなかった私にとって、卵焼きが上手に焼けるようになったことは、繰り返してやること、継続してやることの大切さを実感させてくれました。

 

今年5月のある朝、娘のお弁当にいれる卵焼きを作りながら、ふと「私って何回卵焼き焼いたかなぁ?100回?いやいやそんなもんじゃないか⁉」「いろんなアレンジしたけれど、結局定番の数パターンに落ち着くのねぇ~」。回想にふけってフライパンを見ると、あらら!!まとまらない・・・ここからは集中してなんとか挽回、無事にお弁当箱に収まりましたが、『慢心は人間の最大の敵』!何事も気持ち半分ではうまくいかないもの、集中しないとね。

 

卵焼き作りは人生の教訓にもつながることを教えてくれます。日常の些細なことからこそ、学ぶことは多いのかもしれません。今でも「料亭のよう・・・」とまではいえない我が家の卵焼きですが、娘たちにとっては「一番おいしい卵焼き」として、毎日のお弁当を支えてきました。そんなお弁当作りも次の3月で一旦終了の予定。どうやら、私にとっての「卵焼き」に替わるものを、探す時がきたようです。

 

1歳になって8日目、私の娘は人生の、初めの1歩を踏み出した。ああ、ついに歩けるようになったんだなあとか、ついこの前まで仰向けに寝っ転がっていることしかできなかったのになあ、とか色々考えたけれども、私は理科の教員なので、少し科学的に分析してみたいと思う。

 

彼女が歩くときの様子を観察した。まず地面に手をついて、お尻を上げてから頭を持ち上げ、上体を起こして立つ。ここからずっとぐらぐらしている。頭が重たいので、胸当たりに重心がある。前を見据え、右足を踏み出して、しばらくそのまま揺れて、次に左足ではなくまた右足を踏み出すこともある。右、左、と順番に足を出す無意識は、生まれた時から脳にプログラムされているものではないらしい。両手はパーのまま、顔の高さあたりで広げて、バランスを取っている。2歩から5歩ほど前に進み、バランスを崩して前に転ぶ。転んだショックよりも歩けた嬉しさが勝るのか、両手を前についたまま顔はニコニコしている。しばらくして、お尻を上げ、頭を持ち上げ上体を起こしてまた立ち上がる。

これを、彼女がほかのことに興味をうつすまで、もしくは疲れて立ち上がれなくなるまで飽きることなく繰り返す。

 

「歩く」ということは、意外と複雑な動きからなっている。私たちは普段まったく意識せずに、カバンを肩にかけながら歩いてみたり、少し早足になってみたり、顔を上げ空を見ながら歩いてみたり、信号でふいに止まってみたりするが、そこには非常にたくさんの要素が含まれる。ただまっすぐ歩くだけでも、右足を出して、体重をその上に移動し、地面に右足を付ける。勢いにのせて、同時に左足を出す。またその上に体重を移動する。地面に左足を付ける。また、右足を出すと同時に左腕を前に出す。反対の腕は後ろへ。足がついたら、両腕を反対向きに動かす。

簡単に分けても、これだけの動作を含んでいる。これらはいちいち考えているわけではない。いちいち考えながら動くと、動作がロボットのように、とても不自然になる。

 

私が大学3年生の時、基礎実験の時間にロボットのプログラミングと、動きのシミュレーションの実験をした。一人一台の、身長30 cmくらいのヒト型ロボットを組み立て、プログラムを打ちこみ、ロボットに転送してプログラム通りにロボットを動かす。手を上げる、立ち上がる、片足で立つ、床に座る、歩く、など人間が簡単にできる動作が課題とされていたが、これが本当に難しかった。特に歩くことは、私も含めクラスのほとんどの学生が時間内にできなかった。足をつくタイミングと、もう片方の足を持ち上げるタイミングが少しずれるだけでもロボットは転ぶ。また、足を上げる角度が大きすぎたり小さすぎたりしても、ロボットはつまずいて転ぶ。腕の振りが小さすぎると、足を上げるたびにロボットが回転してしまう。

「歩く」というたったそれだけのプログラムは、たしか100行を優に超えていた。当時、すでに割とスムーズに歩行することができていたASIMOは、どれほど緻密で繊細なプログラムを組まれ、どれほど気が遠くなるような回数の試行を繰り返したのだろうかと感服した記憶がある。

 

しかし、技術の革新は本当にすごいもので、もはやバク転やパルクールまで軽々とこなす二足歩行のロボットができている。「ロボットのような、とても不自然な歩行」は今となっては過去のもので、歩行や走行も実にスムーズ、服を着せてマネキンの顔でもはめたら普通の人間と遜色がないくらい、自然な動作をする。

近年、二足歩行ロボット以外にも、非常に高い段差を越えられたり、でこぼこの経路も進めたりする、災害救助などへの応用が期待される四足歩行ロボットや、人間の筋力を高めるパワースーツのようなロボットなど様々なロボットが開発されている。人間が簡単にできることがロボットにできない分、ロボットにしかできないことやロボットが人間の何倍も活躍できることがたくさんある。今後もいろいろなロボットが開発されて、私たちの身の回りでも利用されていくだろうし、ひょっとすると卒業生でも、これらの開発に携わる人が出てくるかもしれない。

 

娘のたどたどしい歩行を見ながらそんなことを考えていると、真鍋叔郎氏のノーベル物理学賞受賞のニュースが耳に飛び込んできた。研究者が熱意を失わない限り、科学の発展は続く。新しい時代を生きていく世代が、希望に満ちた人生を歩めますように。

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