校長・教員ブログ
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1歳になって8日目、私の娘は人生の、初めの1歩を踏み出した。ああ、ついに歩けるようになったんだなあとか、ついこの前まで仰向けに寝っ転がっていることしかできなかったのになあ、とか色々考えたけれども、私は理科の教員なので、少し科学的に分析してみたいと思う。
彼女が歩くときの様子を観察した。まず地面に手をついて、お尻を上げてから頭を持ち上げ、上体を起こして立つ。ここからずっとぐらぐらしている。頭が重たいので、胸当たりに重心がある。前を見据え、右足を踏み出して、しばらくそのまま揺れて、次に左足ではなくまた右足を踏み出すこともある。右、左、と順番に足を出す無意識は、生まれた時から脳にプログラムされているものではないらしい。両手はパーのまま、顔の高さあたりで広げて、バランスを取っている。2歩から5歩ほど前に進み、バランスを崩して前に転ぶ。転んだショックよりも歩けた嬉しさが勝るのか、両手を前についたまま顔はニコニコしている。しばらくして、お尻を上げ、頭を持ち上げ上体を起こしてまた立ち上がる。
これを、彼女がほかのことに興味をうつすまで、もしくは疲れて立ち上がれなくなるまで飽きることなく繰り返す。
「歩く」ということは、意外と複雑な動きからなっている。私たちは普段まったく意識せずに、カバンを肩にかけながら歩いてみたり、少し早足になってみたり、顔を上げ空を見ながら歩いてみたり、信号でふいに止まってみたりするが、そこには非常にたくさんの要素が含まれる。ただまっすぐ歩くだけでも、右足を出して、体重をその上に移動し、地面に右足を付ける。勢いにのせて、同時に左足を出す。またその上に体重を移動する。地面に左足を付ける。また、右足を出すと同時に左腕を前に出す。反対の腕は後ろへ。足がついたら、両腕を反対向きに動かす。
簡単に分けても、これだけの動作を含んでいる。これらはいちいち考えているわけではない。いちいち考えながら動くと、動作がロボットのように、とても不自然になる。
私が大学3年生の時、基礎実験の時間にロボットのプログラミングと、動きのシミュレーションの実験をした。一人一台の、身長30 cmくらいのヒト型ロボットを組み立て、プログラムを打ちこみ、ロボットに転送してプログラム通りにロボットを動かす。手を上げる、立ち上がる、片足で立つ、床に座る、歩く、など人間が簡単にできる動作が課題とされていたが、これが本当に難しかった。特に歩くことは、私も含めクラスのほとんどの学生が時間内にできなかった。足をつくタイミングと、もう片方の足を持ち上げるタイミングが少しずれるだけでもロボットは転ぶ。また、足を上げる角度が大きすぎたり小さすぎたりしても、ロボットはつまずいて転ぶ。腕の振りが小さすぎると、足を上げるたびにロボットが回転してしまう。
「歩く」というたったそれだけのプログラムは、たしか100行を優に超えていた。当時、すでに割とスムーズに歩行することができていたASIMOは、どれほど緻密で繊細なプログラムを組まれ、どれほど気が遠くなるような回数の試行を繰り返したのだろうかと感服した記憶がある。
しかし、技術の革新は本当にすごいもので、もはやバク転やパルクールまで軽々とこなす二足歩行のロボットができている。「ロボットのような、とても不自然な歩行」は今となっては過去のもので、歩行や走行も実にスムーズ、服を着せてマネキンの顔でもはめたら普通の人間と遜色がないくらい、自然な動作をする。
近年、二足歩行ロボット以外にも、非常に高い段差を越えられたり、でこぼこの経路も進めたりする、災害救助などへの応用が期待される四足歩行ロボットや、人間の筋力を高めるパワースーツのようなロボットなど様々なロボットが開発されている。人間が簡単にできることがロボットにできない分、ロボットにしかできないことやロボットが人間の何倍も活躍できることがたくさんある。今後もいろいろなロボットが開発されて、私たちの身の回りでも利用されていくだろうし、ひょっとすると卒業生でも、これらの開発に携わる人が出てくるかもしれない。
娘のたどたどしい歩行を見ながらそんなことを考えていると、真鍋叔郎氏のノーベル物理学賞受賞のニュースが耳に飛び込んできた。研究者が熱意を失わない限り、科学の発展は続く。新しい時代を生きていく世代が、希望に満ちた人生を歩めますように。