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藤原定家が撰集した「百人一首」、カルタ取りで遊んだことがある、という人もいるでしょう。定家が、飛鳥時代から鎌倉時代までの「秀歌」と考えた、古今の名歌が収められていますが、その中に次の二首が入っています。
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之
ひさかたの光のどけき春の日に静心なく花の散るらむ 紀友則
紀貫之は言うまでもありませんが、『古今和歌集』の選者の一人です。また単なる選者と言うだけでなく、「仮名序」を著した人でもあります。晩年に『土佐日記』も書いていますが、和歌の名人として自他共に認める存在だったのでしょう。一方の友則は、やはり『古今和歌集』の選者の一人でしたが、完成を見ずに亡くなってしまった人物です。貫之の従弟あるいは甥と言われる人物ですが、貫之同様、和歌の名人として名を馳せていたのでしょう。
さて、そのような二人が詠んだ先の二首には「花」が取り上げられています。この「花」、何の花か、わかりますか? 和歌の中に何の断りもなく詠まれているから、梅か桜でしょう! と思った人、すばらしい!!
では、梅か桜かどちらでしょうか? 紀貫之は平安時代初期、貞観年間(859~877年)中頃の生まれと考えられています。一時代前の奈良時代は中国文化が盛んに輸入され、もてはやされていました。そのため、「花」と言えば、中国から輸入された「梅」のことを指した時代もあります。しかし、その後、「花」と言えば、「桜」のことを指すようになり、今に至ります。ということは、二人が詠んだ「花」は?
実は、答えは「百人一首」だけを見ていては、永遠に出ません。この二首、二人が選者を務めた『古今和歌集』にも収められていますが、そちらを見れば一目瞭然なのです。まず、「人はいさ~」の貫之の歌ですが、詞書が次のように書かれています。
初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に久しく宿らで、程経て後に至りければ、かの家の主、「かく定かになむ宿りはある」と言ひいだして侍りければ、そこにたてりける梅の花を折りて詠める
ね、これで貫之の歌の花は「梅」であることが確認できます。一方、友則の歌にも詞書があります。
桜の花の散るをよめる
これを見たら、だれも迷わないでしょう。
今、様々なことをインターネットで調べることができます。しかし、調べ方を知らないとなかなか事実にたどり着くことができない場合もあります。この二首の花についても、「百人一首」だけの情報で調べ、考えようとすると、とんでもない迷路に入り込むのです(実は、この問題、「とんでもない迷路」に陥った人の話が元ネタです)。
情報を探し出す力は、これから先、ますます重要になるでしょう。一つのことを調べる場合、様々な角度から考えて調べてみる、ということを習慣にしてほしい。
そのように願う、今日この頃の伊藤でした。