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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ  2022.07

今日、こんなことを知りました。現代のアイスクリームが発明されたのは1695年。アイスクリームそのものがいつ発明されたかは誰も知らない。

氷のデザートは、氷がなければ成立しない。よほど寒い国に住んでいる人でない限り、冷蔵庫が発明される前は、氷を持つには氷室を使うしかなかったのです。最初の氷室は、メソポタミア北部の町テルガに導入された。紀元前1780年にジムリ・リム王が作らせたものだ。寒冷地から運んできた氷を、わらやおがくずで断熱して氷室に貯蔵していた。中国に初めて氷室が登場したのは紀元前7世紀。氷を買える人は冷たい飲み物を飲み、アレキサンダー大王が好んで飲んだのは、蜂蜜とワインで味付けした氷の飲み物であったという。しかし、これはまだアイスクリームではない。

これらの氷の飲み物は、シャーベットに進化した。ペルシャで始まり、商人によってイタリアに持ち込まれた。アラビア語でシャラブ、それがイタリア語でソルベットとなった。イタリア人はこの凍らせた飲み物を取り入れ、より多くの種類を作り始めた。ソルベの最初のレシピ本は、1694年にナポリのスペイン総督アントニオ・ラティーニによって出版された。この本には、レモン、イチゴ、チョコレート、ナスなどのフレーバーが載っていた。これらはまだ、アイスクリームとは言えないが。

牛乳と米を凍らせたデザートを作ったのは、中国とされている。馬乳や水牛乳に米を混ぜて、凍るまで雪の中に埋めておいたのだ。これは西暦600年頃のことのようですが、もっと後のことかもしれません。また、モンゴルで始まった風習である可能性もあります。

アイスクリームへの道のりで大きな発見は、紀元4世紀にインドで発見された吸熱効果である。これは、ある物質から別の物質に熱が引き出される現象です。牛乳を凍らせるには、熱を奪うのに十分な冷たさの氷が必要です。普通の氷を使っても、牛乳は冷やされるだけです。そこで、氷に塩を加えると温度が下がることを発見した。塩を入れた氷は、牛乳の熱をより多く引き出し、凍らせることができるのだ。

アントニオ・ラティーニが1694年に発表したレシピの中に、ミルクソルベのレシピがあった。これは、史上初のアイスクリームとしてよく引き合いに出される。しかし、私たちが今食べているアイスクリームとはかなり違う。

1718年にロンドンで出版された『Mrs. Mary Eales’s Receipts』にアイスクリームのレシピが載っている。これはお菓子のレシピ本だが、アイスクリームは文字通りクリームを凍らせただけのものである。

1742年にフランスでニコラ・オーディジェというシェフが初めて書いたアイスクリームのレシピには、卵黄が含まれており、アイスクリームをかき混ぜる必要があった。卵黄はクリームをより濃厚に、より滑らかに、よりリッチにするため、これは非常に重要なステップです。また、かき混ぜることによって、氷の塊ができるのを防ぎ、アイスクリームに空気を含ませることができます。

アイスクリームはイギリスにも伝わり、チャールズ2世が好んで食べたことで知られています。しかし、氷室も砂糖も非常に高価だったため、アイスクリームはまだ富裕層の食べ物だった。19世紀半ばまで、アイスクリームは大衆の食べ物ではなかったのです。

アイスクリームが大衆に親しまれるようになるには、いくつかの変化が必要だった。まず、砂糖の価格が下がったこと。砂糖は、1500年頃から手作業で栽培され、手作業で精製され、多大なコストをかけて大西洋を渡って輸送されていた。1747年、甜菜糖が発明され、価格が下がった。そして1768年、砂糖の精製が機械化された。これら、いくつかの進歩により、砂糖のコストは大幅に下がった。

第二の変化は、氷の価格が下がったことである。産業革命で都市に住む人が増えてから、氷の生産が盛んになった。氷が安くなり、ほとんどの家にアイスボックスが置かれるようになった。氷が安くなり、ほとんどの家でアイスボックスが買えるようになり、冷凍食品を家に置く、あるいは作ることが容易になったのです。

1851年、カルロ・ガッティというスイス人が、英国で最初のアイスクリームスタンドをオープンさせた。彼はチャリングクロス駅前にオープンし、シェルに入った氷を1スクープを1ペニーで売った。これは今のお金に換算すると約3ドルです。

アイスクリームの普及を飛躍的に助けたのは、アイスクリームメーカーの発明である。1843年にトーマス・マスターズというイギリス人とナンシー・M・ジョンソンというアメリカ人が、機械化されたアイスクリームメーカーを発明したのである。

そして、1851年、アメリカのペンシルベニア州クエーカーに最初のアイスクリーム工場がオープンした。乳製品を配達する仕事をしていた彼は、転職を決意する。彼は大量の牛乳を手に入れることができ、安くておいしいアイスクリームを作ることができたのだ。彼はすぐにアメリカ東海岸にアイスクリーム帝国を築いた。彼は「アイスクリーム卸売業の父」と呼ばれている。

つまり、氷菓は4,000年近く前に発明されたと思われるが、現代のアイスクリームは17世紀に発明されたばかりなのである。と、こんなことを今日は学びました。

 「何か育てたい!」。これは最近の我が家の息子の口ぐせです。我が家にはウサギの茶々丸くんがいて、「ウサギを飼ってるから、それで十分じゃない?」と言うと、「ううん、それじゃ足りないの。もっといっぱい何か育てたいの」と答えます。

 

 4月。学童保育から帰ってきた息子がティッシュで包んだ何かを持ってきました。「おやつで出たポンカンに立派な種がたくさんあったから、持って帰ってきた。これを育てたい!」…とりあえず鉢に植えてみました。すると1か月後に芽が!大喜びで毎日せっせと水をあげ、けっこう立派に育ってきました。

 

 5月。今度は金魚を5匹持って帰ってきました。5匹!!全部に名前をつけ、えさをやり、かわいがっていましたが、もともと弱かったのか、1匹が病気になるとあっというまに5匹全部病気になり、かわいそうでしたが2週間で死んでしまいました。1匹いなくなるごとに庭にお墓をつくり、号泣し、お線香をあげる息子でした。

 

 6月。さらに今度は「金魚をうめた庭に、金魚がさびしいだろうから何か野菜を育てたい。」と言い出し、枝豆・人参・はつか大根・シソの種を植えました。これまたせっせと毎日水をあげ、芽が出てきました。ところが、ある日シソの芽が荒らされていました。野良猫ちゃんのしわざかね、仕方ないね、と言いましたが「シソがかわいそうだ」とまた号泣。

 

  

 

 

 

 

ポンカン                

カブトムシ

 

7月。ホームセンターの一角でじーっと何かを見つめる息子。「去年はクワガタを育てたから、今年はカブトムシを育てたいな…」と不穏なことをつぶやいています。根負けし、オスを購入。すると「一匹だけじゃかわいそうだよ。仲間がいないとさ。ちゃんとお世話するから」…ということでメスも購入。名前をつけ、毎日ちゃんとお世話をして観察しています。…でも、すいぶん「育てる」ものが増えてきたねえ。テーブルの上が鉢と飼育箱でいっぱいだよ。

 

 そして先日。「ただいまー!ピーナツの苗を5個、もらってきたよー!育てようー!」。ピーナツ!!どうやって育てるんでしょう!?しかも「ピーナツだから鳥が食べちゃうと思うから、外には植えない」のだそうです。ああ、家の中がどんどん鉢に占領されていきます。

 

 …息子の「育てたい!」ブームはまだまだ続きそうです。「育てるもの・生き物」が増えるとお世話がとても大変です。でも、育っていく様子を眺めて喜び、かわいがり、「死んでしまった」と号泣したり悲しんだりするのは、子供の成長にはとても大切なものだなあ、と感じます。日頃、息子の「育てたい!」に振り回され、ブツブツ文句を言っている私ですが、実はけっこう楽しんでいます。…ちなみに、息子が次に育てたいものは「おばけエビ」だそうです!

 

 

最近我が家でブームになっているのは,雪の妖精『シマエナガ』グッズを集めることです。今まで,白くてかわいい鳥の人形やシールなどを見かけていただけで,名前や生息地はおろか実在するのかも知りませんでした。しかし,今年の2月釧路に行く用事があり,1日フリーな時間があったので,『釧路に来たら鶴でしょ!』ということで,タンチョウを探しに鶴居村へ行くことにしました。鶴を見るなら鶴見台かな?とあまり調べずに出発しました。向かう途中に、民家のお庭に2羽のタンチョウが!慌てて写真をパシャパシャし,見ることができたからと満足しましたが,一応向かってみるかとまた出発。そして、鶴見台に到着してみると…。なんとびっくり!100羽近くのタンチョウがいるではないですか!見れなかったらどうしようとか、途中で見れたから満足と思っていた自分が恥ずかしくなるような量のタンチョウに衝撃を受けて,嬉しくなって帰ろうと思いましたが迎えにお土産屋さんが。『鶴のお土産はいらないよ』と言われていたので,見るだけと思い入ってみるとそこにはなんと!シマエナガグッズがたくさんありました!もちろんお土産に大量買い。この可愛い鳥は釧路にいるのか!と思い,次はこの鳥を見に来ようと心に決めて札幌へ帰りました。

 札幌に帰り4月になって迎えた4年生のルーキーズキャンプ。そのホテルで衝撃の事実が判明しました!なんと定山渓にもシマエナガが出没するらしいと。生息地域が気になってようやく調べてみるとさらなる事実が!家の近くの野幌森林公園や学校の近くの円山公園・近代美術館でも目撃情報が!それからというもの,森の近くを通るときや,鳥を見かけたときにはシマエナガではないかと注意してみるようになりました。森に探しに行こうと考えているその時!なんとシマエナガを発見しました!場所は学校のスタディラウンジ…。そうなんです。6年生の頭の上に可愛い鳥が…。見つけてつい声をかけてしまいました。その後も2年生の緑の教室で見た靴下や,3Aの教室にあったモビール…。本物ではなかったけどなぜかうれしい気分になりました。本物は冬に目撃情報が多いようなので,何とか次の冬には本物のシマエナガを見つけたいと思います!

  新聞の投稿欄に目がとまった。今から77年前に終わった太平洋戦争を生き抜き、数年前に他界した私の両親と同じ世代の高齢の女性からの投稿だった。投稿された女性は過酷な体験を経て終戦をむかえた。にわかには受け止めることが出来なかった戦争のない社会の到来を生活の中で体感して受け取れるまで時間が必要だったこと。戦争が終わってから77年間、戦争が終わってから始まった「戦後」がずっと続けて欲しいと願いながら生きてきたことが綴られていた。しかし数か月前ヨーロッパで始まった戦争のニュースを知り、自分が高齢になり社会と人々の日常が少しずつ変化していくのを感じ始めながらも心中で祈り願い続けてきた、続いて欲しい「戦後」の文字が薄れていくのを感じ始めていることに気がついたこと。今社会に漂う空気は自分が青春時代に過ごした空気に似てきたように思う。そして、その時代の空気を吸って「戦争」をむかえた者にしかわからない記憶が頭をよぎろうとする時、薄らいでゆく「戦後」の文字が気がつくと「戦前」という二文字に置き換わろうとしているように見える、と言うものだった。全てのことが突然起こるのではないと思う。「戦前」という二文字は突然私たちの目の前に現れるのではない。未だにあの時の衝撃か消え去らない“東日本大震災”、今まさに渦中にある“新型コロナウイルス感染症”からの問いかけに、私たちはまだ答えていない。私たち人間が地球上にある全てを手中にしたかのような生き方を続けていることへの警鐘に対して。

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