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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ  2023.12

 12月16日土曜日、所属する NPO“ことばのひろば五億の鈴の音の「大人もこどもも朗読会~星をめぐる物語~」が大通り西13丁目「札幌市資料館」で行われた。今年は、宮沢賢治の「よだかの星」、サン=テグジュペリの「星の王子さま(を、著作権処理の関係から青空文庫、大久保ゆうさん訳「あの時の王子くん」で)」、そして一年を締めくくる「ぐりとぐらの1ねんかん」の三作品を、小学校3年生から70代の大人までで読み継ぐ。そしてフィナーレは、宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりのうた」を出演者、観客、スタッフ全員で大合唱。

 

  NHK HTB のアナウンサーというプロの講師陣に指導を受け、発音やイントネーションを指摘してもらいながら日本語の文章を声に出して朗読していく志願者たち、5回の練習会を経ての発表会での驚くべき上達ぶりにいつも驚かされる。特に小学生、中学生の伸びしろの大きさ、子どもの限りない可能性に毎回感動する。

 

 今回私が担当たのは「星の王子さま」、その読む年齢で内容の解釈が変化し、大人になって読んでこそ本当の意味が迫りくる物語。世界に分断が広がり、最悪の事態を招き、そこここにきな臭さが漂う今だから「星の王子さま」を読んでいただきたかった。

 本の題名がいかにも読者を惹きつけてくるが、手に取って最初読んでみると、「?ん?

何これ?」で止めてしまった子どもも大人もたくさんいるはず、私もその一人だった。      

そこで考えることに意味があるのだ。何を伝えたかったんだろう。何を残したんだろう。

 

 1943 年、フランス人飛行家で著作家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ作“Le Petit Prince”は米国、ニューヨークで初版本が出版され(ん?なんでニューヨーク?サン=テグジュペリってフランスの作家だよねと思ったでしょう?)、10 年後の 1953 年に日本で翻訳本が出版された。初めて日本語に訳したのが内藤濯(ないとうあろう)氏、「星の王子さま」の邦題も彼がつけた。70歳代でこの本の翻訳本を手掛けた内藤氏は、酒もたばこもやらない永遠の少年のような男性だったという。そして、著作者サン=テグジュペリも・・・無垢な、子どもの心に大人の皮をかぶった人物だったようだ。ボアの絵を描いて大人に認めてもらえないエピソードのまま彼は大人になり、あの戦争の時代を生きていた。フランス陸軍飛行隊の飛行教官だった彼は、ドイツ寄りのフランス政権に異を唱えアメリカに亡命しこの物語を書いた(だからニューヨークで出版だった!)しかし、戦争終結を願い再び自由フランス空軍に入隊、そして本が出版された 1 年後、1944 5 月に空軍基地を飛び立ち、二度と帰還することはなかった。44歳、生きていればもっと素敵な物語を残しただろうに。  本の最初に、「まだ小さかった頃のレオン・ヴェルトへ」とある。彼はサン=テグジュペリの親友、ユダヤ人だった。レオン・ヴェルトが第二次世界大戦当時ヨーロッパでどのように暮らしていたかは想像に難くない。実際、フランスの片田舎で息をひそめ、飢えと寒さに苦しみながら生きていたそうだ。彼に届けたかった物語、「本当に大切なものは目に見えないんだよ。」王子さまはこう繰り返す。戦争が終わり、レオン・ヴェルトがこの本に自分の名前が記されていることを知った時、サン=テグジュペリはすでにこの世に亡く、インタビューを受けた彼は「トニオ(サン=テグジュペリ)無きこの平和は完全な平和とは言えない。」

と述べたという。子どもに向けた易しい英語なので、”Le Petit Prince” Dedication(献辞) を読んでみてほしい。そして、またぜひ「星の王子さま」を手に取ってみてほしい、いつもそばにあって目に見えない本当に大切なものに気づけるように。

 

To Leon Werth

I ask children to forgive me for dedicating this book to a grown-up. I have a serious excuse: this grown-up is the best friend I have in the world. I have another excuse: this grown-up can understand everything, even books for children. I have a third excuse: he lives in France where he is hungry and cold. He needs to be comforted. If all these excuses are not enough then I want to dedicate this book to the child whom this grown-up once was. All grown-ups were children first. (But few of them remember it.)  So I corrected my dedication: To Leon Werth, When he was a little boy 

 大学生の時お邪魔しインドの体験談をお話します 

 

 最初のインド旅行では定番ルートである北インドのニューデリー(インドの首都)➪ ジャイプール(別名ピンクシティ)➪ アグラ(タージ・マハールのある都市 バナラシ(ガンジス川の沐浴) コルカタ(混沌と雑踏の街)をめぐりました。

     いい機会なので、このルートの近くにあるブッダガヤにも立ち寄ることにしました。ブッダガヤは、今からおよそ2500年前に、お釈迦さまが悟りをひらいてブッダ(サンスクリット語で目覚めた人の意味)なったところ、いわゆる仏教始まった場所です。現地にはお釈迦さまが悟りをひらいたにすわっていたと伝えられている台座があるとのことで、是非とも見てみたいと思ったのです 

 バラナシから鉄道でガヤに移動しバスでブッダガヤに向かう予定でしたが、ガヤ駅の到着時刻4時間以上も遅れてしまい、時刻は夜10過ぎていました。そこで移動あきらめて、宿泊する宿をさがすことにしました。 

(インドあるある:鉄道の遅延はよくおこります。現地の人たちが口をそろえて言っていたのは「目的地に到着したのならばそれで十分じゃないか。何も問題はないじゃないか。でした。また、遅延による運賃の払い戻しもありません。) 

宿さがすために駅を出たところで突然後ろから性の2人組から声をかけられました。 

すみません。ブッダガヤに行くんでしょ? 

「ええそうです 

これから、一緒にオート・リクシャー(三輪タクシー)で行きませんか?」 

これから 一緒にですか?」 

一瞬は驚いたのですが、今日のうちにブッダガヤに到着できる、3人で相乗りするとオート・リクシャーの運賃が安くなる、明日のバスでの移動よりも時間が短縮できると考えて彼女たちと一緒に向かうことにしました。本当は治安が悪い場所ではこのような行動は厳禁です) 

  

3人を乗せたオート・リクシャーは満天の星空の下、インドの田舎道を40分~50走り続けました。 

ブッダガヤまでの道中は、2人組は後部座席に、私は最後部の荷台に座って話をしました。 

2人組はイギリスから来たバックパッカーで、すでにブッダガヤに滞在しており、本当は明るい時間に滞在先に帰るつもりだったが、私も乗車していた鉄道が4時間以上遅れて困ってたこと。 

・ガヤではアジアからの観光客のほとんどブッダガヤに向かうため声を掛けてみたこと 

夜の10時過ぎに外国の女性だけで交通機関を使って移動すること大変危険であるので、安全のために男性である私に声を掛けてみたこと 

 

ブッダガヤに到着したのは夜11時半くらいだったと思います。 

さて、到着したのはいいのですが宿泊先が決まっていません。どうしたものかと私が思案していると2人組から「私たちの滞在先で良かったらどうぞ。きっと大丈夫だと思うわ。」と言ってくれたので一緒にことにしました。彼女たちの滞在先は、お釈迦さまが悟りをひらいた場所から歩いて数分ところにある広い敷地内の二階建ての建物でした。 

午前0時くらいだったと思いますが、彼女たちの交渉のおかげで無事に泊めてもらえることになり小さなシングルルームに宿泊させてもらいました。 

 

 翌朝、次のことがわかりました。 

ここは、サマンバヤ・アシュラム(調和のための道場・共同体)という施設でした。 

インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンディーの高弟であるビノバ・バーによって1954年に設立され、設立からビノバの弟子ドワルコ・スンドラニさん責任者として、アウトカースト(被差別カースト、ここでは主にダリット)の子供たちが養育・教育を受けている寄宿舎学校で、インドの長い歴史の中でしいたげられてきたアウトカーストの人々の自立には子供の教育が必要不可欠であるとの理念の下に現在も活動を続けています。 

サマンバヤ・アシュラムでは、5歳くらいから12歳くらいまでの50人がお祈り食事、清掃、農作業、家畜の世話、学習などの共同生活を送っていて、ここを卒業した後は各自の村に戻っていくのだそうです 

 このアシュラムの理念に賛同する人々(イギリス、デンマーク、ベルギー、カナダアメリカなど)がボランティアとして次々と訪問滞在をしており、声を掛けてくれた2人組もボランティアとして長期滞在しているとのことでした。 

 

昨晩私のために彼女たち交渉し、宿泊を認めてくれたのが責任者のドワルコさんでした。 

ドワルコさんの一番の印象はその「目力」です。鋭く、厳し眼差しはすべてのことを見通しているように感じられ、また同時に、その瞳からは寛容で懐の深い愛情も感じられことを今でもはっきりと記憶しています。 

彼の次の言葉大きな影響を受けました。 

 「インドの問題はインド人の問題だから、インド人が解決しなければならないから努力を続けます 

世界の人達が、それぞれに自分たちの問題を解決する努力を続けるべきだと思います。 

 

 それまでの点と点がつながってインドへの旅が実現しました。 

インドを旅してみるといろな出会いを通して世界が広がっていきました。 

すべては「一歩」を踏み出すことから始まりました。 

これからも恐れることなく「一歩」を踏み出し続けていきたいと思います。 

 北海道はこの時期になると雪が降り、本格的に寒くなります。この季節に制服姿の高校生を見ていると自分が高校生だったころを度々思い出します。

 

私が高校生だったころ「タイツを履くのってなんかダサイ」と思っていました。それは私だけではなく、いわゆる「みんな」履いてないのが当たり前だったので「みんなと違うのは格好悪い」という思いが根底にありました。そして、おそらく当時制服を着ていた高校生の多くの共通認識だったはず…。そんな私の通学手段はバスでしたが、朝も帰りもバスが来るまでとにかく寒い…!冬はものすごく強い風が吹き、地吹雪のせいで視界が真っ白になるので「屯田ブリザード」と友人とふざけて呼んでいました。おまけにバスは1時間に1本しかないので、授業終わりや講習終わりは運が悪ければバスに乗れない。そんな時には吹きさらしの中でバスを待たなければなりませんでした。「タイツ、履いてたらあったかいだろうな」と何度も思いましたが、紺ソックスで3年間堪えしのいでいました。

 

時は流れて大学3年生のころ。冬になって黒いタイツを履く高校生が目立つようになりました。当時、「タイツを履くのはダサイ」と思っていた私は驚きました。「今時の女子高生は制服にタイツを履くの?!」と衝撃を受けたのです。もちろん、高校が違う友人も同じように衝撃を受けていました。「私たちが高校生だったころ、なんでタイツ流行らなかったんだろうね」と話し合ったことを今でも思い出します。北星女子の生徒たちは冬になるとタイツを着用しています。個人的にはセーラー服とよくマッチしているし、かわいいなと思って見ています。何より「しっかり防寒できているな」という安心感があります(冷えは万病のもとです!)。

 

「タイツ」に関わらず「周りの人と違うのは格好悪い、恥ずかしい」と思うモノが若いころには何かしらあると思います。年齢を重ねると「人と違う」ことの方が多いものです。その「違い」は「格好悪い、恥ずかしい」ではなく、その人の個性であり価値観です。大人になった今、「みんなと同じじゃなくてもいいんだよ」と紺ソックスで頑張っていた、高校生の私に教えてあげたいなと思うのでした。

 

自然農法に出会ったのは高校時代でした。『わら一本の革命』という本で、「余計なことをしない、ただわらを蒔けばいい」という稲作の農法を知り、衝撃を受けました。余計なことをしないというのは簡単ではなく、元研究者であった著者がその農法にたどり着くまでには膨大な試行錯誤があったのだと思います。耕さないことで土の中の微生物が守られ、わらを蒔くことで土が直射日光から守られると共に、微生物に栄養分を与えて土を豊かにしていく。自然の営みは人間の知恵よりはるかに優っているという信念が、この境地にたどり着かせたのだと思います。

ここには深い真理があると感じます。耕すから土が瘦せ、肥料が必要になる。土が弱るから作物が弱くなり、虫が発生して農薬が必要になる。余計なことを1つすることで、次々と連鎖的に問題が発生し、それに対策することで新たな問題が生じます。余計なこと、やらなくてよいことを見つけて取り除いていくことが、様々な問題の根本解決につながるのではないでしょうか。

教育の現場でも同じことが言えるのかもしれません。良かれと思って教師が手を出しすぎることで、生徒が自ら伸びる力を抑え込んでしまっているのではないかと自問自答します。ただし、自然は放任とは違います。放任していれば自然に生物は増えていきますが、こちらの望んだ形にはなりません。学校というすでに自然でない環境の中で放任しても、生徒が自然な形に成長するとは思えません。何が必要で、何が必要でないのか、それは生徒を観察することでしか見えてこないのではないかと思います。その前提として、自然、つまり生徒の成長する力は、人の知恵よりも優っているという前提にたつことが大切だと思います。

最近目指しているのは、種を蒔かない農法です。前の年に植えた作物の一部を残しておいて、花を咲かせ、種を落とします。翌年の芽が出る時期に草を刈ってあげると、昨年の種が芽を出し、あとは間引きながら収穫するという方法です。すでに菜っ葉類は数種類、うまくサイクルをつくれています。面白いのは、水も肥料もいらず、年々収穫がよくなっていくことです。自然の摂理に従った生き方をこれからも模索しつつ、生徒に伝えていきたいです。

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