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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ  2024.02

少し古い話ですが、先の年末に妻と義母が話しているとき、義母が 

 「これ、私のと○○(妻の名前)のと『ばくってあげるわ」 

と言いましたが、すぐ後で「『ばくる』って随分使ってないわね」と言い、笑っていました。 

さて、「ばくる」とはどんな意味でしょう? 今の生徒たちは知っているかな? 

 

 答えは「交換する」という意味で、北海道弁です。というわけで今回は方言の話題。 

と言っても、アクセントやイントネーションの話です。最近、語彙としての方言は、本当に廃れてきていると感じています。先程の「バクる」もそうですし、「ゴミを投げる」「ジョッピンかる」「したっけ」なども耳にしなくなりました(それぞれの意味、わかりますか? 最後に答えを書いておきますね。そうなると、「私は方言を使っていない」という感覚になると思います。 

ただ、語彙としては使っていなくても、アクセントやイントネーションが標準語と異なることは、まだまだ残っているのです。具体的な例としては、青森のご当地アイドル、王林さんの話し方がわかりやすいでしょう。彼女は弘前出身とのことですので、津軽弁のネイティブスピーカーはずです。もし彼女が、標準語話者を一切意識せず、他の津軽弁のネイティブスピーカーと話している場面に遭遇したら、おそらく、その内容を聞き取ることは困難だと思います。ですが、テレビで彼女が話している内容を聞き取れるのは、語彙を標準語にしようと、相当意識して話しているからです。ただし、アクセントやイントネーションは標準語と異なっていますよね。このように、語彙は意識的に変えることはできても、アクセントやイントネーションについては、方言を使わないようにすることは難しいのです逆パターンですが、標準語話者が方言を使うと、何か違和感がありますよね)。 

 さて、ここで本題。標準語と北海道弁のアクセントの違いが如実に表れているのは「幼稚園」と「コーヒー」の2語です。多くの北海道人が東京に行って、何かの拍子に「幼稚園」や「コーヒー」と言うと怪訝な顔をされることが多いでしょう。どうしてかと言うと、その2語については 

  標準語アクセント:平板 ⇔ 北海道弁のアクセント:語頭が強い 

という違いがあるからです。もう少しわかりやすく書くと、 

という違いになります。これ、実は結構色々な人がSNSやブログで記事にしていますので、気になる人は、検索し実際に音で聞き比べてみてください。ちなみに、アクセントの位置が違う言葉はまだありますので、それも調べてみてくださいね。 

 今回、このような話題としたのは、北海道出身者に、東京へ行ったときなどに気をつけてね、ということを伝えたかったからではありません。むしろ、自分の言葉を大切にしてしいという思いがあるからです。方言について、特に東日本や北日本の人たちはコンプレックスを抱き、標準語に直そうという気持ちになってしまう人が多いと思います。昔ほどではないと思いますが、気にする人はまだいるのではないでしょうか。でも、言葉には、その人が辿ってきた生き方が反映していると私は考えています。方言を気にしてしまい、言葉遣いやアクセント、イントネーションを直すことは、自分の人生の一部を否定することになってしまうのではないかと思っています。否定は言い過ぎだとしても、自分の人生の一部を隠すことになると思います。それって、とてももったいないし悲しいことですよね。 

多様性が大切にされつつある現在、言葉に対する意識も昔とは変わってきたと感じています。先の王林さんのような、ご当地アイドルが方言を直さず活躍しているのもその一端でしょう。このような動きがもっともっと広がっていけばいいな、と思っている今日この頃です。 

 

〔北海道弁〕 

「ゴミを投げる」→「ゴミを捨てる」 

「ジョッピンかる」→「鍵をかける」 

「したっけ」→「それでは」

皆さんは、心から親友と呼べる人はいますか?突然ですが、親友とはどんな人のことを言うと思いますか?私は親友とは、泥水をすするくらいに落ちぶれ、周りから嘲笑されている時でも、その人のために損得勘定なしで手を差し伸べられる人のことを言うと考えます。たくさんの友達がいるようにみえる人でも、本当に辛いことがあった時に誰からも助けてもらえないなら、その人は1人も友達がいない人だと私は思います。うわべだけの付き合いでは、本当の友情は生まれません。このことは歴史が証明しています。

今日は大谷吉継という1人の武士が、親友である石田三成を命がけで助けようとした話をしたいと思います。大谷吉継は幼少期より、石田三成とは仲の良い遊び相手でした。まだ豊臣秀吉が若かった時のことです。鷹狩の帰りにあるお寺に立ち寄りました。その時、小坊主だった石田三成は、豊臣秀吉にお茶を所望されました。秀吉が汗をかいているのを見た三成は、まず最初にぬるいお茶を持っていきました。秀吉はそれをすぐに飲み干すと、おかわりを要求しました。三成は次に少し熱いお茶を持っていきました。それをゆっくり飲んだ秀吉は、さらにおかわりを頼みました。これを聞いた三成は熱いお茶を入れて秀吉に差し出しました。そのお茶を、秀吉は時間をかけて飲みほしました。秀吉は三成の相手の喉の渇き具合を見て、お茶を出す頭の良さに感服し、家来にしました。これは江戸時代の歴史書である『武将感状記』に書かれた「三献茶」の話です。この時、三成は秀吉に対して、友達の大谷吉継も一緒に雇ってくれるなら、家来になってもいいと返答しています。

その後、石田三成は秀吉の寵愛を受け、五奉行に任じられました。一方で大谷吉継は6万石の知行を与えられたとはいえ、三成と比べると石高も3分の1、役職も三成に遠く及ばないなど、両者の差は歴然でした。しかし、三成はどんなに偉くなっても吉継に対して親友として接し続けました。秀吉に対しても、事あるごとに吉継を重用するように進言しました。

こんな逸話があります。ある日、大名が集まって茶会が開かれました。この時すでに、大谷吉継は重い皮膚病を患っていました。この茶会の茶の飲み方は、大きな器に茶を注ぎ、順番に一口ずつ飲み、隣の人に渡していくというものでした。吉継の番になり茶を飲もうとした時、吉継の顔の皮膚のかけらが茶の湯に入りました。これを見た他の大名は感染を恐れ、みんな飲むふりをして器に口をつけませんでした。これでは茶は減りません。三成はこのままでは吉継が恥をかくと考え、自分の所に来た時に、一気に器に入っていた茶を飲み干しました。三成の思いやりに吉継は涙が止まりませんでした。『士は己を知る者のために死す』という言葉があります。吉継はこの時に、三成のために死のうと考えたのかもしれません。

豊臣秀吉が亡くなると、豊臣氏を守ろうとする石田三成と、豊臣氏から天下を奪おうとする徳川家康との間で戦いが起きました。有名な関ヶ原の戦いです。この時、大谷吉継は石田三成から、家康を討つために力を貸してほしいと懇願されます。吉継は家康と戦っても勝てないことを、三成に親友として諭します。しかし、石田三成の考えは変わりません。迷った挙句、吉継は決心します。負けるとわかっていても、親友のために戦おうと。吉継は三成の陣のすぐそばに自軍を置きます。6万石の大名のため、兵力もわずか1500人ほどしかいません。それでも三成のそばに兵を配置します。それは少し離れた所に、西軍に組していながら東軍の徳川家康に通じ、三成を裏切りそうな小早川秀秋の軍勢15000人がいたからでした。戦闘が開始され、両軍は一進一退の戦いを繰り広げます。どちらかに裏切り者が出れば、形勢は大きく傾くような状況でした。そんな時、小早川秀秋の軍勢が突如として裏切り、石田三成の陣を目掛けて突進してきました。兵力差が10分の1とは言え、この事態をある程度予見していた吉継は、三成の盾となって小早川秀秋の軍勢を食い止めます。同時に伝令を走らせ、友人である三成に逃げて再起をはかることを伝えます。吉継は命を捨てて、三成を戦場から逃がそうとしたのです。その甲斐もあり、三成は戦場で命を落とすことなく、逃げることができました。三成の戦場離脱を見届けた吉継は、潔く戦場で切腹して果てました。友達を逃がすことができた吉継の心情を思えば、本望だったのかもしれません。

本当に大切なものは、お金では買えません。もう一度聞きます。皆さんには、心から親友と呼べる人はいますか?

小学校の時に2度の転校を経験した。

1度目は小学2年生のとき。担任の先生に「1か月後に転校します」と自分で告げることになっていた。私は1週間と1か月の区別がつかず、担任の先生に「1週間後に転校する」と伝え混乱させてしまったことを今でも鮮明に覚えている。

2度目の転校は小学5年生のとき。なんと小学2年生まで通っていた元いた学校に転入することになった。仲の良かった子たちに盛大に迎えられ嬉しかった。最初のテストの結果が良く、担任の先生に、クラスメイト全員の前で褒められた。それから算数は木村に聞けば大丈夫。というクラス全体の認識になっていった。ただ、これには「からくり」がある。転校前の学校の方が授業の進度が速く、特に算数の内容はすべて習い終わっていた。転入先の学校では2度目の授業を聞きテストを受けたので、今までにないほど理解した状態でテストに臨んでいただけだった。

私は小学校に入ってから掛け算で躓き、特に6,7,8の段は壊滅的で、親にも半分あきれられていたほど算数が苦手だった。そんな私が今、数学の教員をしているのだから、生徒たちの未来なんか当然予想できないのである。ふとした一言で子どもに自信をつけさせ、ましてや運命を変えられたその当時の担任の先生はすごいとしか言いようがない。

北星にお世話になって24年目。これまでに多くの生徒と月日を共にしてきた。私もいつかは、生徒たちがまだ気が付けていない力を見つける手助けをできるようになりたいと思い毎日を過ごしている。

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