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校長・教員ブログ

校長・教員ブログ

昔のアニソンや懐メロ特集のテレビ番組を見ていると、「修学旅行で歌った!」「友達にCDを貸してもらったな~」など懐かしさと同時にその当時の記憶が戻ってくることがあります。音楽の持つ力の一つに過去の記憶を蘇らせるというものがあり、特に10代の頃に聞いていた音楽は人生で最も記憶に残っているそうです。

言われてみると、高校時代に練習したピアノや声楽の曲は、すぐに思い出すことができますが、大人になってから練習した曲については細部まで自分の中に留まってはいないと感じます。最近はもっと酷く、1年前の発表会で演奏した曲の記憶すら危うい状況…年齢を積み重ねたせいでしょうか。

 昨年秋に、高校時代の友人と声楽の恩師のコンサートを聞きに行く機会がありました。同じ門下生で伴奏をし合う仲だったこともあり、コンサート前からレッスンの思い出話で盛り上がっていました。コンサートが始まり、うっとりと先生の声に聴き入っていましたが、数曲目に演奏されたイタリア歌曲を聴いた途端!『高校時代に先生にレッスンしていただいた曲』であることを思い出してしまい…それに付随する様々なエピソードがどんどん蘇ってきました。あの時、先生が熱心にご指導してくださったこと、当時の自分はどれだけ理解していたのか…先生ごめんなさい(涙!)

色々な思いが溢れる中、演奏が終わり隣に座っていた友人に「過去を反省したよ」とつぶやくと「私も」との答えが。楽しいことも大変だったことも共有できる友がいる喜びと共に、音楽の持つ力を強く感じた瞬間でした。

 思いもよらない場面で音楽と共に蘇る記憶は、10代の自分と今の自分を繋げてくれるものであると思うと、次はどのような音楽で何時の記憶が蘇ってくるのか、少しだけワクワクする自分に気付かされた出来事でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(英語で読みたい方がいれば、日本語の下に英語の版があります。)

なぜ猫は物を倒さないのか?猫には顔だけでなく、足にもヒゲがあることがわかった。

娘とドミノ倒しをしていると、必ずと言っていいほど、娘か私のどちらかがドミノを倒してしまう。二人とも感覚がないようだ。それなのに、うちの猫は何本も並んだその上を、まるで何もなかったかのように歩いていく。なぜだろう?猫には顔だけでなく、足にもヒゲがある。そして、足のヒゲがあるからこそ、簡単に物の上を歩くことができるのです。

猫には2種類のヒゲがあります。顔のヒゲと足のヒゲです。ヒゲは毛ですが、猫の他の毛とは違います。猫の爪の鞘(さや)と同じケラチンでできているのです。他の毛よりもずっと丈夫で長いのが特徴です。ウィスカーには、血管やたくさんの神経も通っています。ウィスカの毛根は他の毛根よりずっと深く、筋肉とつながっていて、単独でもグループでも動かすことができます。 ウィスカの神経は脳に信号を送り、脳にはウィスカを処理するための領域があります。猫の脳の40%は、ウィスカの情報を処理するために費やされていると言われています。

猫の種類によってヒゲの本数は異なるが、一般的には顔の両側に12本ずつ、合計24本ある。このヒゲは、空気中のわずかな振動を拾うことができるほど敏感である。 猫はこの敏感なヒゲをさまざまな用途に使っている。まず、猫の周囲を探ること。猫は近くの視力がとても悪いので、ヒゲを使って周りを「見る」のです。物体を感じたり、他の動物が通過する振動を感じたりすることができるのです。ヒゲは、物体から跳ね返る空気を感知するソナーに非常によく似ており、猫にそのエリアの心象風景を与えることができます。

また、ヒゲは、猫が通れる場所と通れない場所を教えてくれる。ヒゲは、猫の体の幅に相当する。ヒゲが通るなら、他の猫も通ることができる。また、ヒゲは猫の目を保護する役割も果たしています。猫が高い草や茂みの中を歩いているとき、目の高さに何かがあると、ヒゲが目を閉じるタイミングを知らせてくれるのです。

また、ヒゲはバランス感覚にも役立っている。猫がバランス感覚に優れているのは、ヒゲの先端にある固有感覚器によるものです。これは、猫の手足や体の位置に関する情報を脳に送ることができる。これが、猫がいつも足から着地できる理由のひとつです。

では、なぜ猫は物を倒さないのでしょうか?猫には前足と後ろ足にもヒゲがあります。これは手根ヒゲと呼ばれるもので、顔のヒゲと同じような働きをしていますが、少し違う目的があります。猫は近くを見るのがとても苦手です。ネズミや鳥を捕まえても、動いているかどうか、ちゃんとつかめているかどうかがわからない。手根のヒゲは、獲物がどこにいるか、じっとしているかどうかを感じ取るためのものだ。

また、手根のヒゲには、顔のヒゲが持っている神経や固有感覚器もあります。そのため、猫はヒゲだけで、近くにあるものを感じ取ることができるのです。うちの猫はドミノ倒しの上を軽々と歩いているように見えるが、実は両足のヒゲがドミノ倒しの跳ね返りを感知しているのである。まるで両足のミニソナー。

猫のヒゲは、毛と同じように抜けても生えてくる。猫のヒゲは決して切ってはいけない。猫はヒゲを頼りに移動しているので、切ってしまうとフラフラして動くのが怖くなる。私たちの指を切るのと同じことです。また、猫はヒゲ疲れを起こすことがあります。これは、猫が感覚過敏になったときです。餌が狭い器に入っていて、ひげが常に器とこすれていると、このひげ疲れを起こします。

そこで、彼らは足にあるこのヒゲを使って、自分が持っているもの、あるいは隣に立っているものを感じ取ります。だから、ドミノ倒しのようなものを倒さずに歩くことができるのです。倒したくなければね。うちの猫みたいにね。ちょうど私たちが食べ終わろうとするときに。なぜなら……彼は猫だから……そして、それが猫のすることだからです そして、それが今日私が学んだことです。

Why don’t cats knock things over? It turns out that cats have whiskers on their legs as well as their faces. 

When I’m making a line of dominos with my daughter, it is inevitable that either she or I will knock them all over. We both seem to have no sensory perception. And yet, my cat walks over multiple lines of them as though they are not there. Why? It turns out that cats have whiskers on their legs as well as their faces. And the whiskers on their legs are the reason why they can walk over objects so easily.

Cats have two types of whiskers. The whiskers on their face and the ones on their legs. The whiskers are hairs, but they are different to all of the other hairs on the cat. They are made of keratin, the same material that makes the sheaths over cats’ claws. They are much stronger and longer than any other hair. The whiskers also have blood vessels and lots of nerves in them. They have much deeper follicles than other hair follicles and are connected to a group of muscles which allows the cat to move them independently or as a group.  The nerves from the whiskers send signals to the brain, where there is an area of the brain reserved for dealing with them. Up to 40% of a cat’s brain can be devoted to dealing with whisker information.

Different species of cat have a different number of whiskers, but they generally have 24: 12 on each side of their face. The whiskers are so sensitive that they can pick up slight vibrations in the air.  Cats use these sensitive whiskers for many different purposes. The first purpose is to feel out the area around the cat. Cats have very bad vision up close, and they use their whiskers to “see” the area around them. They can feel objects and they can feel the vibrations of other animals passing. The whiskers are very similar to a sonar in that they can detect air bouncing off objects and can give the cat a mental picture of the area.

Whiskers also tell cats what they can and can’t fit through. The whiskers are the width of the cat’s body. If the whiskers will fit, so will the rest of the cat. The whiskers help to protect the cat’s eyes as well. When the cat is walking through tall grass or bushes and there is something at eye height, the whiskers will alert the cat in time to close its eye.

The whiskers help with balance as well. Cats have superior balance because of proprioceptors at the end of each whisker. These can send information to the cat’s brain about the position of its limbs and body. This is one of the reasons why cats can always land on their feet.

So, why don’t cats knock things over? Cats have whiskers on their front and back legs as well. These are called carpal whiskers and they work in the same way as the whiskers on the face, but they have a slightly different purpose. Cats have very bad close up vision. If they catch a mouse or a bird, they can’t see if it is moving or if they have gripped it properly. The carpal whiskers let them feel where the prey is and if it is still or not.

The carpal whiskers also have the nerves and proprioceptors that the facial whiskers have. This allows the cat to sense when things are near just by using the whiskers. My cat appears to effortlessly walk over my dominoes, but the whiskers on each leg are actually sensing the air that is bouncing back off these objects. Like mini sonar on each leg.

Cats lose their whiskers and they grow back, the same as with all of their hair. You should never trim a cat’s whiskers. They depend on them so much to navigate that if you cut them off, the cat will be dizzy and afraid to move. It would be the same as cutting our fingers off. Cats can also get whisker fatigue. This is when they get sensory overload. If their food is in a narrow bowl and their whiskers constantly rub against the bowl, they can get this whisker fatigue.

So, they use these whiskers on their legs to feel what they are holding or standing next to. And that is how they can walk over things like dominos without knocking them over. Unless they want to. Like my cat does. Just as we’re about to finish. Because … he’s a cat … and that’s what cats do! And that is what I learned today.

校庭のクリスマスツリーにあかり が灯り、さあ 12 月だ。

12月 といえば いろいろ な作品があるなあ・・・ 樋口一葉「 大 つごもり」、荒井由実「 12 月の雨」 ・・・ ん? 、マルシャーク「森は生きている」の 原題は「 12 月」 、 ・・・ そして 「マッチ売りの少女」 、 12 月のクリスマスの夜の悲しい物語 ・・・ 。

「“マッチ売りの少女”にしましょう!」

と、幼いころ妹と繰り返し読んだというM 女史 。

「 NPO ことばの ひろば 五億の鈴の音 」 の仲間たちと今年の朗読会で読む作品を選んでいた。 朗読を 通して 、表現活動の場や技術向上の機会を提供 し 、 子どもたちの心と言葉を育むことを目的として活動する NPOである 。

今年は『 大人も子どもも朗読会 』 と題して、 「 12 月 に 「 豊平館 」 を会場に 朗読会のステージに立ってみませんか !」 、と SNS で 呼びかけ 、 8 名の子供と 12 名の大人が名のりをあげ てくれた。 彼らに読んでもらう作品を選んでいたのだ ・・・ 12 月 、 冬、雪の豊平館にふさわしい作品とは・・ ・

選ばれたのは、

1.「雪女」小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)作

2.「注文の多い料理店」宮沢賢治作

3.・・・

M

女史 の ひと 声に、「そうね、いいね」と私も賛成、他のメンバーもうなずき、決定!

「それにしても、 なんて悲しい 、 救いのない・・ ひどい話 ・・」と思っていると、作品担当は私になっていた!読み手に名乗りを上げた3 名の小学生と 3 名の大人の 朗読者に作品解説をし、朗読の練習をするのだ。

「マッチ売りの少女」は、 デンマークが生んだ 偉大な 童話作家ハンス・クリスチャン・アンデルセン の名作 だ。「はだかの王様」「人魚姫」「すずの兵隊」「みにくいアヒルの子」「雪の女王」 ・・・アンデルセンの作品を読まずに大人になった人はいないのではないかと思うほど、子どもたちのそばにあった物語達。

彼の作品 に は、アンデルセン自身の波乱万丈 の 人生 が 投影 され、 初期の作品は救いのない結末が多く「死ぬことでしか生きる苦しみから解放されることのない貧しい人々、それに 無関心な冷たい 社会」 が描かれているという。生涯創作活動を続けたアンデルセンは、努力の甲斐あって晩年には社会に一目置かれる存在となり、物語も結末に希望の光が見えるも のに変わっていった。

しかし、「マッチ売りの少女」は比較的後期の作品なのだ。この結末にしたアンデルセンの意図はどこにあるのか。マッチ売りの少女って誰なんだろう・・・ 謎解き「マッチ売りの少女」 の 始ま り靴職人の父と、その父よりかなり年上の 母のもとに生まれたハンス・クリスチャン・アンデルセンは、貧しいながら愛情を受けて育つ。父親は物語を読み聞かせたり、人形劇のおもちゃを手作りしてくれたそうだ。 母は信心深く息子を宝物のように大切にした。 しかし 10 歳でその父親を戦争で失う。生きるために母は再婚し (そうするしか女性には生きるすべがない時代だった) 、ハンスは 15 歳で家を出て自立の道へ。

最初はオペラ歌手 になろうとしたというハンス、挫折と失敗の連続の中、なぜか人に恵まれ、大学に行かせてもら い 、ひとかどの教養を得て文筆活動を始めたようだ。

40歳になり、童話作家として 認められるようになった アンデルセンは、ある日一枚の版画を渡され 、 それに物語をつけてほしいと依頼 され る。手に 、 火が 灯る 一本のろうそくを持った少女の 挿絵 、 そこに 描いた 物語 ・・・とは?

アンデルセンの心に浮かんだのは・・・極貧の家に育ち、幼いころから物売りに出され、稼ぎがないと継父にぶたれながら、なんとか自分の命だけを守りぬいて生きていた少女・・・それはアンデルセンの母のことだった。幼いころ母親から聞いた昔語り、現実とは思えないほど辛く悲しい現実を物語に込めた・・・

「マッチ売りの少女」が世に出たのは1848 年、ヨーロッパは革命の嵐が吹き荒れ、デンマークでも三月革命が起きた。ヨーロッパ全土は3 年に渡る大飢饉で食べるものも行き渡らず、持てる者と持たざる者の格差は広がり、それをどうすることもできない時代の「生きる権利」を求める革命であったそうだ。まさに「死ぬことでしか生きる苦しみから解放されることのない貧しい人々、それに無関心な冷たい社会」を描き出した物語だったのだ。

あまりの悲しい結末に、ある国では後半を大きく変えてハッピーエンドにして出版されたものもあったそうだ。

でも、それはどうなのだろうと思う。アンデルセンが伝えたかった事、残したかったことを読み継ぐことの意味をちゃんと受け止め伝えたい。読んだ者の心に残る「なんてひどい・・・」、いつの世も、どの社会にもいる辛く悲しい境遇の子供たちのことを忘れない、少しでもできることを考える一人であってほしい・・・。

10月、時節柄、オンラインで「朗読会」の練習が始まった。

小学生の理解力、学習力、表現力に感動する! 無垢な心に響いた物語を素直に表現してくる。

「おばあちゃん!」と、少女は大声を上げました。「ねぇ、わたしをいっしょに連れてってくれるの?でも…… マッチがもえつきたら、おばあちゃんもどこかへ行っちゃうんでしょ。……

(青空文庫 大久保ゆう訳「マッチ売りの少女」より)

のくだりを、担当するYちゃんに読まれると、毎回、涙腺崩壊しそうになる・・・

アンデルセンの時代も、今も、かのウクライナにも、ロシアにも、そしてこの日本にも、世界中のどこにでも、自分の力ではどうしようもない弱い立場の人々が存在してしまう人間社会。とりわけ「女の子」がその苦しみを背負わされることが多いことを私たちは知っている。「そのことに気付いて、どうぞ忘れないでいてほしい」、と心に刻みつけるような悲しい物語で、アンデルセンは世に訴えたかったのかもしれない。

『大人も子どもも朗読会』は12月11日日曜日、豊平館のステージでその思いが時を超えて読み継がれる。

教室から外を見ると、クリスマスツリーの輝く木。

スミス先生が創ってくださったこの学校にクリスマスが近づいている。

130年の時を経て、私たちは暖かい教室で、友達がいて、勉強ができていることがどういうことなのか・・・、

Shine like stars in a dark world. クリスマスの夜に、思い出してみてほしい。

 趣味の多い私ですが、その中でも息の長い趣味の一つに編み物があります。初めて編針を持ったのは小学校3年生の冬。冬休みの自由研究にマフラーを作りました。そこから、かれこれ30年以上、季節を問わず、ほぼ毎日のように編み続けています。仕事が忙しかった日も、寝る前に10~15分くらい編み物をすると、リラックスして眠りにつくことができます。編み物は私の生活に欠かせない、ルーティーンの一つです。

編み物の魅力は、なんといっても、自分が頭の中で思い描いた形を、一続きの糸で形作ることができる点だと思います。編み図の通りに作るだけでなく、自分のサイズに合わせたり、違う作品にアレンジしたりすることができます。糸の種類や色を変えれば、同じデザインでも、まったく違った印象のものを作ることも可能です。自分が思い描いたものが完成すると、なんとも言えない達成感を覚えます。最近はサマーニットやこたつカバーなどの大物を作ることが多く、完成した時の喜びもひとしおです。子どもが小さい時は、毎年オリジナルの帽子を作るのも楽しみの一つでした(が、小学生になるとあまり喜んでくれず、ちょっと寂しい……)。

複雑な形や模様の物を編んでいる間は、編み目の数を揃えたり、模様編みにするために編み方を変えたりと、目の前の編み目に集中する必要があります。余計なことを頭で考えながら編むと、間違えてしまいます。反対に、単純な編み目でひたすら同じ編み方をすれば完成する物を作る時には、手だけが同じリズムを作り出し、いろいろなことを考えながら編むことができます。その時々の自分の精神状態に合わせて複雑か単純かを選ぶことで、リフレッシュ効果も高まる気がします。

 調べてみると、編み物には、私が感じているようなリラクゼーション効果が検証されており、欧米では「ニットセラピー」と呼ばれ、うつ病の治療などにも活用されているそうです。また、手先を使うことで脳の活性化につながるため、高齢者のリハビリテーションにも取り入れられることが多いようです。どんな色合わせにするかを考える点ではカラーセラピー的な要素もあり、編み物が持つ効能はさまざまです。

 休日など時間が取れる時は、つい根を詰めて編んでしまい、眼精疲労と肩こりに悩まされることもしばしばですが、これからもたくさん編み続けていきたいと思います。

 

 「絶対に再度、訪ねてみたい」もしくは「もう二度と行きたくない」

インドを訪ねた旅行者は、必ずどちらかに分かれるのだそうです。はたして自分はどちらになるのか実際に体験してみたいということもあって、大学2年生の2月に北部インドへ10日間のバックパッカー(低予算の個人旅行者)の旅に出かけました。


 「人の海」
 インドの第一印象は、人、人、人・・・の波が絶え間なく寄せては返す「人の海」でした。首都のデリー空港に到着して、宿泊するオールド・デリー(当時)のメインバザール(市場)の安宿までの移動中や食事をかねて散策したメインバザールでも、どこからともなく客引きが現れたり、すれ違いざまに耳元で売買できる物をささやく押し売りがいたり、レストランや屋台のボーイからは「ハロー、ジャパニー!(日本人)」「コンニチハ、ジャパニー!」「ゲンキデスカ!」の声が止むことはありませんでした。そのあまりの迫力に、たじろぐばかりでした。

よくよく考えてみれば、初めてのインド旅行で周りをキョロキョロと見回す青白い日本人観光客は、生活がかかっている彼らにとっては、都合の良いお客さんだったに違いありません。その時の自分のようすを思い出すと、苦笑せずにはいられません。しかしながら、滞在日数の経過と共に、次第に緊張もほぐれてきて、近寄ってくるインド人を受け流したり、声掛けに返答したり、時にはこちらから先に話しかけたりしながら「人の海」をかき分けていけるようになっていきました。

「オートリキシャの運転手にぼったくられる」高額料金をぼったくられた大失敗談です。

デリー郊外にあるクトゥブ・ミナール(世界遺産、インド最古のミナール(イスラム教のモスクに付属して建てられる塔))を観光していた時に、オートリキシャの運転手から「今日一日、デリーの観光地をガイドするよ。効率よく観光できて便利だよ。」と声を掛けられました。親切なインド人もいるんだなと思って、ガイドを頼みました。その後、一日をかけて観光が終わり、請求された料金を言われるままに支払いました。3000ルピー(当時の日本円で約10000円)でしたが、その後、ガイド料相場の6倍以上の料金であることを知りましたが、「時すでに遅し」でした。当時の3000ルピーは、1人のバックパッカーが約23週間の旅ができるほどの金額でした。この時は本当に気持ちが落ち込んでしまい、どうしてインドに来てしまったのだろうと自問自答していたことを覚えています。しかし、この大失敗は、その後の旅にとても活かされることとなりました。
 ①事前に料金の相場を調べておくこと。

(事前にホテルやゲストハウスで聞いておく、声を掛けてこない運転手に聞いてみる、

通りすがりのインド人に聞いてみる)

 ②声を掛けてきた運転手、客引きは断る。

③流していたり、声を掛けてこないオートリキシャを利用する。

④料金の交渉を済ませてから乗車する。

⑤交渉がうまくいかなかったら他のオートリキシャと交渉する。

⑥観光できるくらいの豊かさがあるので、ある程度のところで妥協する。

 

  海外での料金交渉のやり方について何も知らなかった青白い日本人のバックパッカーを鍛えて、成長させてくれたインドを再訪問できることを楽しみにしています。

 

 みなさんが「ときめく」ものはなんでしょうか。

まず、私が「ときめく」ものを2つご紹介します。

 

私は文房具が大好きです。ノート、ふせん、ファイルやバインダーなどを眺める(購入しなくても)だけでわくわくします。文房具の中でも、ボールペンを選ぶときにはこだわりがあります。書き味も大切ですが、色味や太さ、速乾性などたくさんのこだわりがあるので、自分が納得のいく1本を見つけた時には大変ときめきます。

2つ目にご紹介するのは今を時めくシマエナガです。ふわふわでまっしろ、つぶらな瞳、まるいフォルム。今や知らない人の方が少ないのではないでしょうか。私は本物を見たことがありませんが、シマエナガグッズや写真を眺めて日々癒されています。

さて、ここまで「ときめく」ものについてご紹介しましたが、「ときめく」とは辞書で調べると「喜びや期待のために胸がどきどきする」とあります。「ときめく」の語源は諸説ありますが「動悸」(胸がどきどきすること)に「めく」(そのように見える)がついたものとされています。また、「今を時めく」の「時めく」は「時を得て世にもてはやされる」という意味で、先ほど挙げた「ときめく」とは意味が異なります。加えて「時めく」には「格別に深い愛情を受ける」という意味もあり、かの有名な「源氏物語」の本文にも用いられています。

言葉を知ることはその時代の文化や社会を知ることにも繋がります。「ときめく」のように音だけではわからない意味の違いや語源を調べてみると、自分が知らなかった新しい文化や社会に出会えるかもしれません。みなさんも身の回りにあふれている多種多様な「言葉」にぜひ注目してみてください。

からしとわさびはなぜ鼻が痛くなるのか?からしとわさびが舌や喉ではなく鼻を痛めるのは、からしに含まれる油分がガスに変わるからです。

からし、わさびなどの香辛料は、唐辛子とは全く異なる方法で私たちに影響を与えます。辛い唐辛子を食べると、唐辛子に含まれるカプサイシンが油状になり、舌にくっつくのです。カプサイシンは化学的な刺激物です。カプサイシン分子は、舌にあるバニロイド受容体サブタイプ1と呼ばれる受容体に結合します。カプサイシンは、この受容体を刺激し、脳に信号を送ります。この受容体は熱や摩擦によって刺激されるため、脳はやけどを負ったように錯覚するのです。また、カプサイシンは、感覚を長く持続させるために、徐放性を持っています。唐辛子を食べると、痛みの信号が免疫反応を引き起こします。血管が広がって顔が赤くなり、カプサイシンの効果で体が温まるので汗をかく。カプサイシン分子は疎水性、つまり水にはじかれるので、コップ一杯の水を飲んでも口の中から出てこないのはそのためです。

では、なぜからしやわさびは鼻を痛めるのでしょうか?なぜ、舌には影響がないのでしょうか?からし菜の種子とわさびの茎には、アリルイソチオシアネート(AITC)と呼ばれる油性の化合物が含まれています。これは、植物が傷つき、細胞が破裂したときにのみ放出されます。ですから、からしを挽いたとき、わさびを切ったとき、あるいはからしの種を噛んだときに、化学物質が放出されるのです。 AITCは非常に簡単に気化します。舌に当たると、瞬時に気体になるのです。この新しい軽いガスが副鼻腔に浮き上がり、そこの粘膜を刺激するのです。私たちの鼻や舌には痛みを感じる受容体があり、AITCはそれと結合して脳に信号を送ります。鼻の穴は涙管で目とつながっているので、AITCで痛みを感じると、目からも水が出るようになります。とても痛いのですが、気体なのですぐに消えます。

植物はなぜ辛く進化してきたのか?唐辛子もからし芋も、同じ理由で辛く進化しました。唐辛子も、からしやわさびも、動物が自分やその種を食べるのを止めたいのです。唐辛子に含まれるカプサイシンはすべての哺乳類に影響を与えるので、哺乳類はすぐにその植物を食べられないことを学習する。しかし、鳥はカプサイシンに対して完全に免疫があるため、好きなだけ食べることができる。鳥類には、哺乳類のように口の中に痛みを感じるレセプターがないのです。なぜこれが植物にとって有利になるのでしょうか?理由は3つあります。第一は、動物には歯があり、鳥にはないことです。動物は鳥よりもはるかに植物の種子を噛み砕く可能性が高いのです。2つ目の理由は、鳥は哺乳類よりもはるかに長い距離を移動することができ、植物の目的は可能な限り遠くまで自分を広げることだからです。3つ目の理由は、鳥の消化器官を通過した種子は、通過していない種子よりも370%発芽率が高いからです。鳥がタイミングよく実を食べるように、唐辛子は熟すと赤くなる。鳥は赤い色に引き付けられ、哺乳類はその色に躊躇しがちである。また、唐辛子の外皮は、熟すと鳥にしか見えない紫外線を反射する。

マスタードはどうでしょう?マスタードの種は、動物がパクパク食べないように、辛く進化してきました。哺乳類は、カリカリしない限り、からしを食べることができますが、からしやわさびがAITCを放出する能力を進化させた主な理由は、そこではありません。それは昆虫に帰結する。私たちはからしの辛さが好きですが、昆虫にとっては毒なのです。イモムシなどの昆虫がからしやわさびをかじると、ガスが出て昆虫を殺してしまうのです。しかし、それで終わりではない。何百万年もかけて、一部の昆虫はAITCガスに耐える能力を進化させたのである。そのため、植物はより高いレベルの毒性を持つように進化しなければならなくなった、というわけだ。もし、数百万年前に私たちがマスタードを食べていたら、おそらく今ほど辛くはなかったでしょう。そして、これが今日私が学んだことです。

Why do mustard and wasabi make your nose hurt? Mustard and wasabi hurt your nose instead of your tongue and throat because the oil in them turns into a gas.

Spices such as mustard and wasabi affect us in a very different way to chili. When you eat a spicy chili, the capsaicin in the pepper are oily and they stick to your tongue. Capsaicin is a chemical irritant. The capsaicin molecules bind to receptor in the tongue called the vanilloid receptor subtype 1. The capsaicin stimulates the receptor and causes it to send a signal to the brain. This tricks our brain into thinking we are being burned because these receptors are stimulated by heat and abrasion. The capsaicin also has a slow release capacity to make the sensation last a longer time. When you eat chili, the pain signal causes an immune response. The blood vessels widen, which causes the red face, and we sweat because the capsaicin makes us feel warmer. Capsaicin molecules are hydrophobic, meaning they are repelled by water, which is why drinking a glass of water won’t help get them out of your mouth.

So, why do mustard and wasabi make your nose hurt? Why don’t they affect the tongue in the same way? The seeds of the mustard plant and the stem of the wasabi plant contain an oily compound called allyl isothiocyanate (AITC). This is only released when the plant is damaged and the cells are ruptured. So, when the mustard is ground or when the wasabi is cut, or when you chew mustard seeds, the chemical is released.  AITC vaporizes very easily. When it hits your tongue, it instantly becomes a gas. This new, lighter gas floats up into your sinuses and irritates the mucous membranes there. We have pain receptors in our nose as well as on our tongue, and the AITC binds with those, sending a signal to our brain. The nasal passage is connected to the eyes via the tear ducts, so when we have the pain from AITC, our eyes start to water as well. It can be very painful but, because it is a gas it dissipates fairly rapidly.

Why have plants evolved to be so spicy? Chili plants and mustard plants have evolved this ability for the same reason. Both chili peppers and mustard and wasabi want to stop animals eating them or their seeds. The capsaicin in chili affects all mammals, so they very quickly learn that they can’t eat the plant. However, birds are completely immune to capsaicin, so they can eat as much as they want. Birds don’t have the same pain receptors in their mouths as mammals do. Why would this be an advantage for the plant? There are three reasons. The first is that animals have teeth and birds don’t. Animals are far more likely to chew up the seeds of a plant than birds are. The second reason is that birds can travel a much greater distance than a mammal can and the goal of any plant is to spread itself as far as it possibly can. The third reason is that seeds that pass through the digestive system of a bird are 370% more likely to germinate than seeds that do not pass through a bird. To make sure the birds eat the fruit at the right time, chili peppers turn red when they are ripe. Birds are attracted to the color red, while mammals tend to be deterred by it. The outer layer of the pepper also reflects ultraviolet light, which only birds can see, when it is ripe.

What about mustard? Mustard has evolved seeds that are spicy to discourage animals from crunching them. Mammals can eat mustard, so long as they don’t crunch it, but that is not the main reason that mustard and wasabi evolved the ability to release AITC. That comes down to insects. We like the spiciness that comes with mustard, but to insects it is toxic. When insects, such as caterpillars, bite into mustard, or wasabi, the gas is released and kills the insect. However, that is not the end of the story because over millions of years, some insects have evolved the ability to survive the AITC gas. This meant that the plants had to evolve a greater level of toxicity, and so on. If we had eaten mustard millions of years ago, it probably wouldn’t have been anywhere near as spicy as it is today. And this is what I learned today.

いい歳になってきたので、自分の趣味について気ままに書き連ねようと思い、念のためライフワークについて調べてみました。そうしたら何と「ずっと愛好したい趣味」のことではなく「人生をかけてする仕事」ということで、「音楽教師」が私にとって正にライフワークであると再認識されました。でもやはり、最近再開した趣味について書きたいと思います。

私は大学の音楽科で管弦楽を専攻しました。具体的に言うと管楽器のファゴット(=イタリア語・英語ではバスーン)を学びましたが、「大学では何を専攻されましたか」という話題になると「ファゴットです」と言ったとたん、そこで会話が終了することが度々ありました。みなさんはファゴットが中低音の木管楽器なのはご存じですよね。私はこの楽器が大好きです。大学時代も友人たちから「似合ってる、ぴったり」と言われ続けていました。そしてついに昨年(2021年)の7月から市内のアマチュアオーケストラに入団し(正確には26年ぶりの復帰)活動を始めました。これまでも細々とアンサンブル活動は続けていましたが、毎週合奏があるとなるとさすがに継続した準備は欠かせません。仕事もあるため練習の質や量を工夫し、主に土曜日に個人練習をし日曜日の合奏に備えるのをパターンとし真面目に実行してきました。その甲斐(かい)あってか少しずつ演奏の感覚が戻り、復帰後、三回のオーケストラ演奏会も無事に吹ききることができました。

老後の趣味は盆栽か家庭菜園が人気なのでしょうが、音楽教師の趣味が楽器演奏なんて、正にライフワークと言っていいのではないかと思っています。音楽の授業や吹奏楽部の指導の時でも「先生もがんばっているんだぞー」と言えることに幸せを感じている今日この頃です。

娘が京都の大学に進学し、京都を訪れる機会が増えました。大好きな古典文学ゆかりの地が沢山ある京都。オープンキャンパス、受験、入学、引っ越し、etc.と、本来の目的を済ませ、(あるいは済ませないうちに)ここぞとばかり、京都のあちこちを訪れています。

 

 京都の魅力は、言わずもがな、古風でうつくしい町並み、和食や和菓子はもちろんのこと、土地の人の舌が肥えているのか、何を食べても大概おいしい(と、私には感じる)食べ物、伝統を生かしたお土産品の数々…ですが、中でも街中に、あるいは市中からほんの少し離れただけのところにあるたくさんの寺社仏閣でしょう。その空間に身を置くことで、日常の喧騒から離れ、リフレッシュすることができます。私の中では「気持ちがさっぱりする」というのが、最もふさわしい表現になるでしょうか。長い歴史の中で多くの人の思いと手がかけられている場所、自然との融合、霊的なものはやはり言葉にならない…。

 

 洛西にある世界遺産龍安寺石庭もそのような場所の一つです。方丈の縁に座って石庭を眺めると、石が何を意味しているのか、そんな難しいことはわかりませんが、何だか日ごろの塵埃が洗い流されるように感じます。

 さて、この石庭は多くの謎に包まれていることでも有名です。いつ、誰が、何のために作ったのか?石の配置が意味していることは?石庭の大きさや石の配置を数学的に解き明かすことも研究されています。

私が最も心惹かれるのは石庭を眺める視点です。置かれている石の数は15個。しかし、方丈の縁側のどこに座って見ても15個の石を全て見ることはできないのです。東洋では完全数と考えられる「15」という数を、留まった「人」の視点で見ることはできない。唯一か所、立ち上がった視点からは15個の石を見ることができる。

 

 私たち人間が不完全な存在であることを思い知らされます。もちろん、天空からみればすべてが明確に見えますが、私たちの通常の視点から物事のすべてを見ることは難しいということを肝に銘じなければなりません。

ともすれば謙虚さを忘れがちな現代社会だからこそ、大事にしたい視点であり、ひとときです。

 

 

 

 

「もう親の言うことなんて聞かないですよね。」「本当に言うこと聞かなくて困っています。」・・・保護者の方とお話をすると、よく聞く言葉です。

 でも、私は子どもが言うこと聞かなくて困った記憶が無い。あれ?うちの子どもたちはそんなに良い子なのか?・・・いやいや、特に上の子はとっても困った子で、忘れ物大将でプリント類はいつもどこに行ったか分からない。色々なものをなくしてしまう。などなど。

 ではどうして私は「子どもが言うことを聞いてくれない。」と悩まなかったのか。

  最近気がついた。私はそもそも子どもに言うことを聞かせようと思ったことが無かった。

忘れ物をして困るのは本人で、私ではなかった。だから本人がいつもランドセルをパンパンにして忘れないように全教科の道具を持ち歩いていた。市電に乗るときにウィズユーカード(今は懐かしい)の残金が無くて、困ったときには運転手さんに「次回2回分払います」と言って降ろしてもらったことが何度もあるそうで、そんなことできるのか?と思ってしまったが、何度も怒られつつも何とかなっていたようだ。

  私は貧血がひどく、たびたび「めまい」で倒れるとても頼りないママである。子どもたちは私が倒れないようにできるだけ家事を手伝ってくれている。お皿洗いもお風呂掃除も子どもたちが担ってくれている。お買い物にも付き合ってくれて、荷物は子どもが担当する。

私は子どもたちより早く寝る。毎晩私のベッドに子どもたちが入ってきて、ぼそぼそと話していく。お友達関係に悩んだ時、進路に悩んだ時、一緒になって泣くことも何度もあった。

私は〇〇をしなさい。とは言えない。自分が一番体力も無く、いつも子どもたちに助けられている存在だから。私が言えることは、生まれてきてくれてありがとう。いつもママを助けてくれてありがとう。ママはいつもあなたの味方で、どんな時でも応援しているからね。大好きだよ。ということ。

それで子どもたちは安心して自分で考えて行動してくれる。自分が何かやらかすと自分が困るし、ママも困るかもしれない。と思ってやらかさないように気をつけるようになるようだ。

 かくいう我が家の息子も私を心配しつつ妹に託して巣立って行った。苦労しつつも何とか自分で頑張っているようだ。大好きだよ!これからも応援してるよ~!

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