校長・教員ブログ
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皆さんは、心から親友と呼べる人はいますか?突然ですが、親友とはどんな人のことを言うと思いますか?私は親友とは、泥水をすするくらいに落ちぶれ、周りから嘲笑されている時でも、その人のために損得勘定なしで手を差し伸べられる人のことを言うと考えます。たくさんの友達がいるようにみえる人でも、本当に辛いことがあった時に誰からも助けてもらえないなら、その人は1人も友達がいない人だと私は思います。うわべだけの付き合いでは、本当の友情は生まれません。このことは歴史が証明しています。
今日は大谷吉継という1人の武士が、親友である石田三成を命がけで助けようとした話をしたいと思います。大谷吉継は幼少期より、石田三成とは仲の良い遊び相手でした。まだ豊臣秀吉が若かった時のことです。鷹狩の帰りにあるお寺に立ち寄りました。その時、小坊主だった石田三成は、豊臣秀吉にお茶を所望されました。秀吉が汗をかいているのを見た三成は、まず最初にぬるいお茶を持っていきました。秀吉はそれをすぐに飲み干すと、おかわりを要求しました。三成は次に少し熱いお茶を持っていきました。それをゆっくり飲んだ秀吉は、さらにおかわりを頼みました。これを聞いた三成は熱いお茶を入れて秀吉に差し出しました。そのお茶を、秀吉は時間をかけて飲みほしました。秀吉は三成の相手の喉の渇き具合を見て、お茶を出す頭の良さに感服し、家来にしました。これは江戸時代の歴史書である『武将感状記』に書かれた「三献茶」の話です。この時、三成は秀吉に対して、友達の大谷吉継も一緒に雇ってくれるなら、家来になってもいいと返答しています。
その後、石田三成は秀吉の寵愛を受け、五奉行に任じられました。一方で大谷吉継は6万石の知行を与えられたとはいえ、三成と比べると石高も3分の1、役職も三成に遠く及ばないなど、両者の差は歴然でした。しかし、三成はどんなに偉くなっても吉継に対して親友として接し続けました。秀吉に対しても、事あるごとに吉継を重用するように進言しました。
こんな逸話があります。ある日、大名が集まって茶会が開かれました。この時すでに、大谷吉継は重い皮膚病を患っていました。この茶会の茶の飲み方は、大きな器に茶を注ぎ、順番に一口ずつ飲み、隣の人に渡していくというものでした。吉継の番になり茶を飲もうとした時、吉継の顔の皮膚のかけらが茶の湯に入りました。これを見た他の大名は感染を恐れ、みんな飲むふりをして器に口をつけませんでした。これでは茶は減りません。三成はこのままでは吉継が恥をかくと考え、自分の所に来た時に、一気に器に入っていた茶を飲み干しました。三成の思いやりに吉継は涙が止まりませんでした。『士は己を知る者のために死す』という言葉があります。吉継はこの時に、三成のために死のうと考えたのかもしれません。
豊臣秀吉が亡くなると、豊臣氏を守ろうとする石田三成と、豊臣氏から天下を奪おうとする徳川家康との間で戦いが起きました。有名な関ヶ原の戦いです。この時、大谷吉継は石田三成から、家康を討つために力を貸してほしいと懇願されます。吉継は家康と戦っても勝てないことを、三成に親友として諭します。しかし、石田三成の考えは変わりません。迷った挙句、吉継は決心します。負けるとわかっていても、親友のために戦おうと。吉継は三成の陣のすぐそばに自軍を置きます。6万石の大名のため、兵力もわずか1500人ほどしかいません。それでも三成のそばに兵を配置します。それは少し離れた所に、西軍に組していながら東軍の徳川家康に通じ、三成を裏切りそうな小早川秀秋の軍勢15000人がいたからでした。戦闘が開始され、両軍は一進一退の戦いを繰り広げます。どちらかに裏切り者が出れば、形勢は大きく傾くような状況でした。そんな時、小早川秀秋の軍勢が突如として裏切り、石田三成の陣を目掛けて突進してきました。兵力差が10分の1とは言え、この事態をある程度予見していた吉継は、三成の盾となって小早川秀秋の軍勢を食い止めます。同時に伝令を走らせ、友人である三成に逃げて再起をはかることを伝えます。吉継は命を捨てて、三成を戦場から逃がそうとしたのです。その甲斐もあり、三成は戦場で命を落とすことなく、逃げることができました。三成の戦場離脱を見届けた吉継は、潔く戦場で切腹して果てました。友達を逃がすことができた吉継の心情を思えば、本望だったのかもしれません。
本当に大切なものは、お金では買えません。もう一度聞きます。皆さんには、心から親友と呼べる人はいますか?
小学校の時に2度の転校を経験した。
1度目は小学2年生のとき。担任の先生に「1か月後に転校します」と自分で告げることになっていた。私は1週間と1か月の区別がつかず、担任の先生に「1週間後に転校する」と伝え混乱させてしまったことを今でも鮮明に覚えている。
2度目の転校は小学5年生のとき。なんと小学2年生まで通っていた元いた学校に転入することになった。仲の良かった子たちに盛大に迎えられ嬉しかった。最初のテストの結果が良く、担任の先生に、クラスメイト全員の前で褒められた。それから算数は木村に聞けば大丈夫。というクラス全体の認識になっていった。ただ、これには「からくり」がある。転校前の学校の方が授業の進度が速く、特に算数の内容はすべて習い終わっていた。転入先の学校では2度目の授業を聞きテストを受けたので、今までにないほど理解した状態でテストに臨んでいただけだった。
私は小学校に入ってから掛け算で躓き、特に6,7,8の段は壊滅的で、親にも半分あきれられていたほど算数が苦手だった。そんな私が今、数学の教員をしているのだから、生徒たちの未来なんか当然予想できないのである。ふとした一言で子どもに自信をつけさせ、ましてや運命を変えられたその当時の担任の先生はすごいとしか言いようがない。
北星にお世話になって24年目。これまでに多くの生徒と月日を共にしてきた。私もいつかは、生徒たちがまだ気が付けていない力を見つける手助けをできるようになりたいと思い毎日を過ごしている。
こんにちは。英語科教諭の田邊と申します。今回は私がアメリカ留学した時のことを振り返って、留学して間もなく経験したことから、これから留学に行く生徒の皆さん、留学をしたいと思っている生徒の皆さんが留学前にすべきことについて話したいと思います。
私がアメリカに留学したのは、アメリカの大学院でTeaching English as a Second Language(第二言語としての英語教授法)を学ぶためでした。当時、英語教員を目指していた私にとって、そこでの学びを未来の私の生徒たちに役立てたいと考えていました。
授業が正式にスタートする前に、留学生向けのオリエンテーションがあり、そこでたくさんの留学生、特に韓国や中国、台湾、マレーシア、タイ、ベトナム、インドネシア、ミャンマーといったアジアの国々からの留学生と出会いました。
彼らと話をする中で感じたのは、彼らの多くが日本人に対してマイナスのイメージを持っていることでした。彼らのお爺さんお婆さん世代が太平洋戦争を経験しており、その間の日本の行動を考えると無理もないことです。そして、その行動に対してあなたはどのように考えるかと聞かれたときに、私は恥ずかしながら、満足な答えを返すことが出来ませんでした。それは、私の英語力不足といういうよりもむしろ、私は過去の悲劇についての知識はあったにしても、自分はどう考えるのか、彼らに質問されるまで明白な意見を持っていなかったからでした。
そのことをきっかけにして、私は日本が過去に起こした過ちについて自分がどう思っているのかを考えました。そして、過去に起こったことは変えることは出来ないので、その過ちを素直に認めて日本人として謝罪し、今後二度と同じ過ちを繰り返さないように努めることが大切だと考えました。そして自分と同世代の外国人との理解を深めることによって、平和の実現が可能なのではないかと思うに至りました。
私は当時、大学の寮に住んでいたので、そこで多くの留学生と出会い、過去に日本が起こした戦争について、さらに話す機会がありました。時には夜遅くまで話すこともありました。折しも私が滞在しているときに、日本の真珠湾攻撃から50年という節目の年を迎えて、TVや新聞でそれに関する特集が組まれたことや、日本企業によるアメリカ企業の買収などで、アメリカ人の日本人に対する風当たりが厳しい時でしたので、寮に住んでいるアメリカ人からも強く非難されることがありました。そんな中で、自分の考えを素直に伝え、互いに理解を深めることで、少しずつ友人関係を築くことが出来ました。
留学先で出会う人々は、皆さんを通して、日本という国、つまり日本の文化や日本人の考えを知ります。ですから、日本の文化や歴史に対する正しい知識を持っていることはもちろんのこと、それに対する自分の考えをしっかり持つことがとても大切だと思います。いくら英語が上手に話せても、自分の意見をしっかりと伝えられなければどうにもなりません。ですから留学する前に、どのようなことに対しても、自分の考えをしっかりと持つように努力してみてください。そして留学先では草の根の親善大使として、世の中の平和のために少しでも力になってもらえれば嬉しいです。
12月16日土曜日、所属する NPO“ことばのひろば五億の鈴の音“の「大人もこどもも朗読会~星をめぐる物語~」が大通り西13丁目「札幌市資料館」で行われた。今年は、宮沢賢治の「よだかの星」、サン=テグジュペリの「星の王子さま(を、著作権処理の関係から青空文庫、大久保ゆうさん訳「あの時の王子くん」で)」、そして一年を締めくくる「ぐりとぐらの1ねんかん」の三作品を、小学校3年生から70代の大人までで読み継ぐ。そしてフィナーレは、宮沢賢治作詞作曲の「星めぐりのうた」を出演者、観客、スタッフ全員で大合唱。
元 NHK や HTB のアナウンサーというプロの講師陣に指導を受け、発音やイントネーションを指摘してもらいながら日本語の文章を声に出して朗読していく志願者たち、5回の練習会を経ての発表会での驚くべき上達ぶりにいつも驚かされる。特に小学生、中学生の伸びしろの大きさ、子どもの限りない可能性に毎回感動する。
今回私が担当たのは「星の王子さま」、その読む年齢で内容の解釈が変化し、大人になって読んでこそ本当の意味が迫りくる物語。世界に分断が広がり、最悪の事態を招き、そこここにきな臭さが漂う今だから「星の王子さま」を読んでいただきたかった。
本の題名がいかにも読者を惹きつけてくるが、手に取って最初読んでみると、「…?ん?
…何これ…?」で止めてしまった子どもも大人もたくさんいるはず、私もその一人だった。
そこで考えることに意味があるのだ。何を伝えたかったんだろう。何を残したんだろう。
1943 年、フランス人飛行家で著作家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ作“Le Petit Prince”は米国、ニューヨークで初版本が出版され(…ん?なんでニューヨーク?サン=テグジュペリってフランスの作家だよね…と思ったでしょう?)、10 年後の 1953 年に日本で翻訳本が出版された。初めて日本語に訳したのが内藤濯(ないとうあろう)氏、「星の王子さま」の邦題も彼がつけた。70歳代でこの本の翻訳本を手掛けた内藤氏は、酒もたばこもやらない永遠の少年のような男性だったという。そして、著作者サン=テグジュペリも・・・無垢な、子どもの心に大人の皮をかぶった人物だったようだ。ボアの絵を描いて大人に認めてもらえないエピソードのまま彼は大人になり、あの戦争の時代を生きていた。フランス陸軍飛行隊の飛行教官だった彼は、ドイツ寄りのフランス政権に異を唱えアメリカに亡命しこの物語を書いた(だからニューヨークで出版だった!)しかし、戦争終結を願い再び自由フランス空軍に入隊、そして本が出版された 1 年後、1944 年 5 月に空軍基地を飛び立ち、二度と帰還することはなかった。44歳、生きていればもっと素敵な物語を残しただろうに。 本の最初に、「まだ小さかった頃のレオン・ヴェルトへ」とある。彼はサン=テグジュペリの親友、ユダヤ人だった。レオン・ヴェルトが第二次世界大戦当時ヨーロッパでどのように暮らしていたかは想像に難くない。実際、フランスの片田舎で息をひそめ、飢えと寒さに苦しみながら生きていたそうだ。彼に届けたかった物語、「本当に大切なものは目に見えないんだよ。」王子さまはこう繰り返す。戦争が終わり、レオン・ヴェルトがこの本に自分の名前が記されていることを知った時、サン=テグジュペリはすでにこの世に亡く、インタビューを受けた彼は「トニオ(サン=テグジュペリ)無きこの平和は完全な平和とは言えない。」
と述べたという。子どもに向けた易しい英語なので、”Le Petit Prince”の Dedication(献辞) を読んでみてほしい。そして、またぜひ「星の王子さま」を手に取ってみてほしい、いつもそばにあって目に見えない本当に大切なものに気づけるように。
To Leon Werth
I ask children to forgive me for dedicating this book to a grown-up. I have a serious excuse: this grown-up is the best friend I have in the world. I have another excuse: this grown-up can understand everything, even books for children. I have a third excuse: he lives in France where he is hungry and cold. He needs to be comforted. If all these excuses are not enough then I want to dedicate this book to the child whom this grown-up once was. All grown-ups were children first. (But few of them remember it.) So I corrected my dedication: To Leon Werth, When he was a little boy
大学生の時にお邪魔したインドの体験談をお話します。
最初のインド旅行では定番ルートである北インドのニューデリー(インドの首都)➪ ジャイプール(別名ピンクシティ)➪ アグラ(タージ・マハールのある都市)➪ バナラシ(ガンジス川の沐浴)➪ コルカタ(混沌と雑踏の街)をめぐりました。
いい機会なので、このルートの近くにあるブッダガヤにも立ち寄ることにしました。ブッダガヤは、今からおよそ2500年前に、お釈迦さまが悟りをひらいてブッダ(サンスクリット語で目覚めた人の意味)になったところで、いわゆる仏教が始まった場所です。現地には、お釈迦さまが悟りをひらいた時にすわっていたと伝えられている台座があるとのことで、是非とも見てみたいと思ったのです。
バラナシから鉄道でガヤに移動し、バスでブッダガヤに向かう予定でしたが、ガヤ駅の到着時刻が4時間以上も遅れてしまい、時刻は夜10時を過ぎていました。そこで移動はあきらめて、宿泊する宿をさがすことにしました。
(インドあるある:鉄道の遅延はよくおこります。現地の人たちが口をそろえて言っていたのは「目的地に到着したのならばそれで十分じゃないか。何も問題はないじゃないか。」でした。また、遅延による運賃の払い戻しもありません。)
宿をさがすために駅を出たところで、突然後ろから女性の2人組から声をかけられました。
「すみません。ブッダガヤに行くんでしょ?」
「ええそうです。」
「これから、一緒にオート・リクシャー(三輪タクシー)で行きませんか?」
「これから? 一緒にですか?」
一瞬は驚いたのですが、今日のうちにブッダガヤに到着できる、3人で相乗りするとオート・リクシャーの運賃が安くなる、明日のバスでの移動よりも時間が短縮できると考えて、彼女たちと一緒に向かうことにしました。(本当は治安が悪い場所では、このような行動は厳禁です)
3人を乗せたオート・リクシャーは満天の星空の下、インドの田舎道を40分~50分走り続けました。
ブッダガヤまでの道中は、2人組は後部座席に、私は最後部の荷台に座って話をしました。
・2人組はイギリスから来たバックパッカーで、すでにブッダガヤに滞在しており、本当は明るい時間に滞在先に帰るつもりだったが、私も乗車していた鉄道が4時間以上も遅れて困っていたこと。
・ガヤではアジアからの観光客のほとんどがブッダガヤに向かうために声を掛けてみたこと。
・夜の10時過ぎに外国の女性だけで交通機関を使って移動することは大変危険であるので、安全のために男性である私に声を掛けてみたこと。
ブッダガヤに到着したのは夜11時半くらいだったと思います。
さて、到着したのはいいのですが宿泊先が決まっていません。どうしたものかと私が思案していると2人組から「私たちの滞在先で良かったらどうぞ。きっと大丈夫だと思うわ。」と言ってくれたので一緒に行くことにしました。彼女たちの滞在先は、お釈迦さまが悟りをひらいた場所から歩いて数分のところにある広い敷地内の二階建ての建物でした。
午前0時くらいだったと思いますが、彼女たちの交渉のおかげで無事に泊めてもらえることになり、小さなシングルルームに宿泊させてもらいました。
翌朝、次のことがわかりました。
ここは、サマンバヤ・アシュラム(調和のための道場・共同体)という施設でした。
インド独立の父と呼ばれるマハトマ・ガンディーの高弟であるビノバ・バーべによって1954年に設立され、設立時からビノバの弟子ドワルコ・スンドラニさんが責任者として、アウトカースト(被差別カースト、ここでは主にダリット)の子供たちが養育・教育を受けている寄宿舎学校で、インドの長い歴史の中でしいたげられてきたアウトカーストの人々の自立には子供の教育が必要不可欠であるとの理念の下に現在も活動を続けています。
サマンバヤ・アシュラムでは、5歳くらいから12歳くらいまでの約50人が、お祈り、食事、清掃、農作業、家畜の世話、学習などの共同生活を送っていて、ここを卒業した後は各自の村に戻っていくのだそうです。
このアシュラムの理念に賛同する人々(イギリス、デンマーク、ベルギー、カナダ、アメリカなど)がボランティアとして次々と訪問・滞在をしており、声を掛けてくれた2人組もボランティアとして長期滞在しているとのことでした。
昨晩、私のために彼女たちが交渉し、宿泊を認めてくれたのが責任者のドワルコさんでした。
ドワルコさんの一番の印象はその「目力」です。鋭く、厳しい眼差しはすべてのことを見通しているように感じられ、また同時に、その瞳からは寛容で懐の深い愛情も感じられたことを今でもはっきりと記憶しています。
彼の次の言葉にも大きな影響を受けました。
「インドの問題はインド人の問題だから、インド人が解決しなければならないから努力を続けます。
世界の人達が、それぞれに自分たちの問題を解決する努力を続けるべきだと思います。」
それまでの点と点がつながってインドへの旅が実現しました。
インドを旅してみるといろんな出会いを通して世界が広がっていきました。
すべては「一歩」を踏み出すことから始まりました。
これからも恐れることなく「一歩」を踏み出し続けていきたいと思います。
北海道はこの時期になると雪が降り、本格的に寒くなります。この季節に制服姿の高校生を見ていると自分が高校生だったころを度々思い出します。
私が高校生だったころ「タイツを履くのってなんかダサイ」と思っていました。それは私だけではなく、いわゆる「みんな」履いてないのが当たり前だったので「みんなと違うのは格好悪い」という思いが根底にありました。そして、おそらく当時制服を着ていた高校生の多くの共通認識だったはず…。そんな私の通学手段はバスでしたが、朝も帰りもバスが来るまでとにかく寒い…!冬はものすごく強い風が吹き、地吹雪のせいで視界が真っ白になるので「屯田ブリザード」と友人とふざけて呼んでいました。おまけにバスは1時間に1本しかないので、授業終わりや講習終わりは運が悪ければバスに乗れない。そんな時には吹きさらしの中でバスを待たなければなりませんでした。「タイツ、履いてたらあったかいだろうな…」と何度も思いましたが、紺ソックスで3年間堪えしのいでいました。
時は流れて大学3年生のころ。冬になって黒いタイツを履く高校生が目立つようになりました。当時、「タイツを履くのはダサイ」と思っていた私は驚きました。「今時の女子高生は制服にタイツを履くの?!」と衝撃を受けたのです。もちろん、高校が違う友人も同じように衝撃を受けていました。「私たちが高校生だったころ、なんでタイツ流行らなかったんだろうね」と話し合ったことを今でも思い出します。北星女子の生徒たちは冬になるとタイツを着用しています。個人的にはセーラー服とよくマッチしているし、かわいいなと思って見ています。何より「しっかり防寒できているな」という安心感があります(冷えは万病のもとです!)。
「タイツ」に関わらず「周りの人と違うのは格好悪い、恥ずかしい」と思うモノが若いころには何かしらあると思います。年齢を重ねると「人と違う」ことの方が多いものです。その「違い」は「格好悪い、恥ずかしい」ではなく、その人の個性であり価値観です。大人になった今、「みんなと同じじゃなくてもいいんだよ」と紺ソックスで頑張っていた、高校生の私に教えてあげたいなと思うのでした。
自然農法に出会ったのは高校時代でした。『わら一本の革命』という本で、「余計なことをしない、ただわらを蒔けばいい」という稲作の農法を知り、衝撃を受けました。余計なことをしないというのは簡単ではなく、元研究者であった著者がその農法にたどり着くまでには膨大な試行錯誤があったのだと思います。耕さないことで土の中の微生物が守られ、わらを蒔くことで土が直射日光から守られると共に、微生物に栄養分を与えて土を豊かにしていく。自然の営みは人間の知恵よりはるかに優っているという信念が、この境地にたどり着かせたのだと思います。
ここには深い真理があると感じます。耕すから土が瘦せ、肥料が必要になる。土が弱るから作物が弱くなり、虫が発生して農薬が必要になる。余計なことを1つすることで、次々と連鎖的に問題が発生し、それに対策することで新たな問題が生じます。余計なこと、やらなくてよいことを見つけて取り除いていくことが、様々な問題の根本解決につながるのではないでしょうか。
教育の現場でも同じことが言えるのかもしれません。良かれと思って教師が手を出しすぎることで、生徒が自ら伸びる力を抑え込んでしまっているのではないかと自問自答します。ただし、自然は放任とは違います。放任していれば自然に生物は増えていきますが、こちらの望んだ形にはなりません。学校というすでに自然でない環境の中で放任しても、生徒が自然な形に成長するとは思えません。何が必要で、何が必要でないのか、それは生徒を観察することでしか見えてこないのではないかと思います。その前提として、自然、つまり生徒の成長する力は、人の知恵よりも優っているという前提にたつことが大切だと思います。
最近目指しているのは、種を蒔かない農法です。前の年に植えた作物の一部を残しておいて、花を咲かせ、種を落とします。翌年の芽が出る時期に草を刈ってあげると、昨年の種が芽を出し、あとは間引きながら収穫するという方法です。すでに菜っ葉類は数種類、うまくサイクルをつくれています。面白いのは、水も肥料もいらず、年々収穫がよくなっていくことです。自然の摂理に従った生き方をこれからも模索しつつ、生徒に伝えていきたいです。
題名は、最近会った友人と話していたことです。その友人は、私の高校時代に他校(ライバルチームのような)のバスケ部のキャプテンだった人で、高校3年生の最後の大会が終わってから仲良くなりました。その友人との付き合いは、進学先も遠く、会わない期間も含めてにはなりますが、かれこれ10数年の仲です。そんな友人と先日話していたことですが、「やりきった!」とはどのような状態なのかということです。
私は小学校4年生からバスケットボールをはじめ、中学、高校、大学、教員チーム…とずっとバスケットボールをしてきました。妊娠を期にバスケットボールから2年ほど離れていましたが、また再開して、今は数か月に1回ではありますが先ほど話した友人と一緒のチームで競技をしています。そこで練習や試合を終えていつも思うことが、バスケが上手くなりたい!ということです。ほかの競技をしている人も含め、毎日必死に練習に取り組んでいるスポーツマン(部活生)からしたら、数か月に1回しか練習してない人間が言うことではないかもしれないのですが…本当にバスケットボールをするたびに上手くなりたいと思うのです。また、試合をする相手は20代そこそこの人が多かったりする中で、まだまだ負けたくない!!という気持ちになってしまうのです。その気持ちを友人に話すと、その友人も「わかる!!!」と共感してくれます。そして、2人で話しているのは、いつになったら「やりきった!!!」と言ってバスケを辞めることができるんだろうねということです。こんなに長い時間バスケを続けてきたのに、そして何回も区切り(引退という状況)を経験してきているのに、どうして辞められないのだろうかと…。
もちろん、バスケットボールという競技自体が好きだということはあると思うのですが、きっといつまでも自分の可能性を信じているんだと思います。(笑)実際、バスケをしに行くと足がもつれたり、早く走れなかったり、シュートが届かなかったり、終われば全身筋肉痛が数日後にやってきたり…みっともない姿でしかないのですが、バスケ(だけでなくスポーツをすること自体が)楽しいので、これからもやりきった!となることはなく、競技を続けるんだろうなと思います。今のところ、大きな怪我もせず、ゆるーくバスケをさせてもらっていますが、これからも上手くなりたいという向上心を常に持ちながら、家庭と仕事と趣味を上手く回して、細々と競技を続けていきたいと思っています。ちなみに、先月所属しているチームのゼッケンを購入したので、その元をとるまでは何が何でもに続けようと思っています。(笑)
最後になりますが、皆さんの思う「やりきった!!!」とはどのような状態ですか?機会があれば、「やりきった」とはどのような状態なのか立ち話でもいいのでぜひ教えてほしいです。お話を聞いて、自分の引き際が分かるかもしれないので…。
先月、カナダ語学研修引率のためバンクーバーに行ってきました。
レインクーバーの別名名高く雨の日が多いバンクーバーですが、研修の後半はお天気にも恵まれて透き通った青空と美しい紅葉を見ながら活動することが出来ました。今年は、現地でお世話になっている会社からのご厚意でアイスホッケーを観戦しました。迫力満点のプレーに生徒たちも大盛り上がり、まさしく「華の金曜日」を満喫しました。
さて、私のカナダでの楽しみの一つは、スーパーマーケットでレアなお菓子を買うことです。今年もワクワクしながらハロウインムード一色の店内へ、いつものように買い物かごをゴロゴロ引きながらお菓子の陳列棚へ到着すると、そこには目を奪われる「KITKAT」が存在感たっぷりで並べられていました。「えっ!日本のスーパーマーケットでも普通に売っていて珍しくないよ」と思ったみなさん、いやいや私にとっては初めましてのハロウインバージョンのキットカット。今まで知っていたキットカットと言えば、ウエハースをチョコレートで包んだ2フィンガーバーの形状になった製品。でも、初めましてのキットカットは、ドラキュラとか魔女の形になったチョコレート菓子でした。馴染みの赤いパッケージには、5種類の形状があって、どれが出るかお楽しみと書かれていました。本当に一粒一粒が可愛い形になっているのか、心配でしたが帰ってから開けてみると、パッケージの写真通りの可愛いチョコレートが出てきて一人大喜び。そういえば日本でも長年馴染み深いキットカットですが、それもそのはず、1973年キットカット日本初上陸、1989年ネスレ社が国産キットカットを販売しました。その時は、日本人にとっては甘すぎる味だったようですが、徐々に日本人好みになっていったようです。甘いのは、イギリス生まれだから?1935年イギリスのロントリー社が開発、当時ここの工場で働く男性から「お弁当と一緒に職場に持っていけるチョコレートバーが欲しい」との要望からこの商品が誕生したようです。ロントリー社の社長はクリストファー・カットさん、幼少時のあだ名がキット、ここから現在も1秒間に700本売れる「キットカット」という商品名が誕生したんですね。戦時中は、チョコレートの大切な原材料の一つである牛乳の供給がままならなくなり、ロントリー社は、「キットカットチョコレートクリスプ」のレシピの変更を余儀なくされました。レシピおよび味の変更に伴う、消費者からの信頼を失うことを懸念したロントリー社は、「チョコレートクリスプ」という名前をパッケージから外して「キットカット」だけを残し、さらにこれまでの赤いパッケージから青に変更。「戦争が終わるまでチョコレートクリスプは作れません」と広告を打ちました。さらにパッケージには、「平和な時代に楽しんでいただいていたチョコレートクリスプは、牛乳不足のため作ることができなくなりました。この「キットカット」は、現在我々が提供できる、最大限味を近づけたレシピで作られた製品です。」と説明書きが付けられたそうです。戦争は、美味しいチョコレートも含めて、私たちから大切なものを奪うんですね。
さて、日本では2000年ころから九州の方言がモチーフで「きっと勝つとぉ(きっと勝つよ)」の縁起物として受験生のみならず、大切な人への応援や感謝の気持ちを伝えるコミュニケーションツールとして用いられるようになりました。キットカットされどキットカット、私たちを長い間楽しませてくれているキットカットで忙しい毎日にちょっと一息入れましょうか。「Have a break、Have a KITKAT」
理科の中村先生の投稿に便乗いたしまして、社会科の菊地も是非見てほしい映画を紹介させてください。タイトルは『君たちはまだ長いトンネルの中』(なるせゆうせい監督)です。
主人公は女子高校生の高橋あさみ。どこの学校にでもいる普通の高校生。ところが「疑問」に思ったことや「間違っているのでは…」と思ったことに対しては、たとえ相手が大人であっても果敢に切り込んでいき論破していくアグレッシブな子です。(決してクレーマー映画ではありません)
ネタバレになるので詳しくは書きませんが…
私(菊地)は、主人公が「自分たちのことでしょ、自分たちで調べなよ…」というセリフが強烈に刺さりました。今の世の中、情報はサクッと沢山直ぐに手に入るようになりました。
今の時代で「知らない」は通じないのかもしれません。同時に「教えてくれなかった…」も通用しないですよね。
自分の信念を曲げず論破するためには、無数の情報から取捨選択する力、身の回りに起こることを他人事にせず自分事として捉える姿勢が必要ですよね。女子高校生から、この社会で生きる上で大事な事を教えてもらいました…そんな映画です。ぜひご覧ください!