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英語科の短期留学レポート

英語科の短期留学レポート

佐々木 望の留学レポート

          My Kind Family and Friends

 

     I went to Adelaide for 4 weeks during summer vacation. My host family was mother, father, grandfather, 2 sisters, and 2 brothers, and we had a dog, a bird, and many fish.

     I had a hemorrhage from my middle finger when I arrived at Australia. You should take moisturizing cream if you go to Oceania because Australia in winter is an arid climate. In addition, I recommend you taking an earpick tool or a nail clipper.

     I had a first day at school on the second day and I didn’t know what time to get up. I wanted to have a breakfast but I didn’t know where the milk and a spoon were. I looked for them. At last I found a very small spoon and I didn’t find the milk. After breakfast, I boiled two eggs for my lunch. And then my mother waked up and said “What are you doing!?” Actually I had a morning session on that day but I didn’t know this fact. I said “I’m making a sandwich for my lunch” then she told me this fact. After that, she asked me “Did you have a breakfast?” and I said “Yes, But I ate just cereal by a small spoon because I couldn’t find the milk and an ordinary spoon” After she listened to these, she laughed very much. And she told my vice-principal, father, and grandfather about this.

     My first fried in Australia was Japanese. I made two Japanese friends. Maybe some people think it is miserable, but I was happy. Though their lessons and my lessons were different so we didn’t spend many time with.

     Actually there was a girl who didn’t like me. She was one of the Japanese students. I like her so I was so sad. Then I became a passive person in the house. My mother and father looked amazed about me. I had fear of being hated by my family, so I told my mother this. After that she said “She is maybe homesick now. Why don’t you hear her trouble? You are not homesick. You are glad you came our house!” She advised me and made me smile.

     I spent a lot of fun time in Adelaide. After my study abroad, I learned it is more important thing that feelings to understand the partner than language knowledge.

 

              オーストラリア留学について

 

私は2019年の夏休みに4週間アデレードに行きました。私の家族はホストマザー、ファザー、グランドファザー、シスター(2人)、ブラザー(2人)の7人で、ペットは犬(ブーフ)と鳥(ケリー)が1匹ずつ、そしてたくさんの魚がいて、とても大きな家族でした。

 オーストリアに来て2日目の朝に左手の中指が切れました。ここは冬だととても乾燥が厳しく、帰国日には手の甲に小さな穴ができました。私ほど乾燥した人はあまりいないと思いますが、まったく乾燥しない人はいないので、今後冬にオセアニア州に行くことを考えている人は医薬品の保湿クリームを持っていくことをお勧めします。他にも耳かきや爪切りなどの日用品、冬に重宝されるカイロなどをもっていくといいです。

2日目のハプニングは手が切れたことだけではありませんでした。私はオーストラリアに着いた2日目から登校でした。しかし、朝何時に起きればいいのかわからず、6時に起きました。朝食を食べようと思ってもシリアル、牛乳、スプーンがどこにあるのかわからず、長い時間探すことになりました。結局牛乳は見つからずシリアル単体を食べることになり、さらにマザーの孫用のスプーンを使うことになりました。朝食後に学校に持っていくお弁当を作ろうと思い、卵をゆでていたらマザーが起きてきて「何をしているの!?」と、驚かせてしまいました。実はこの日はホストスクールの下見だけで、午前中に帰る予定だったのです。しかし彼女は怒る様子なく、明日からやればいいのよと笑いながら慰めてくれました。また、朝食はとったか聞かれたので牛乳なしで小さなスプーンを使ってシリアルを食べたと伝えると、これにもまた笑っていました。彼女にとってこれらは笑いのツボだったようで、下見の時の面談では副校長先生に私の留学生はとても活発なのよと笑いながら話していました。また、家に帰ってからもファザーやグランドファザーに言っていました。帰宅してから知ったのですが、副校長先生(マック *後にまた登場する)はファザーの従兄弟でした。きっとマックとマザーはもともと顔見知りで、だからあの時はたくさん話していたのだと思います。ちなみにこの日に新しい友達が2人できました。ダブルさきです。彼女たちも日本人で、すぐに打ち解けることができました。海外に来て最初の友達が日本人というのを少し格好悪く思う人もいるかもしれませんが、私は国籍に関係なく、新しい友達に出会えたことに喜びましたし、自分にとってプラスになることが起きると人は心に余裕が生まれて新しいことにも挑戦できるようになるので、そのような面でも留学生活序盤で彼女たちに出会えてよかったです。私、えりな(同じく北星の5F)、さき、さきの4人は不安な気持ちでいっぱいだったので、出会った初日に毎朝フロントオフィスで会おうと約束してしまいました。毎朝日本語で話してしまったので、留学2週間目の金曜日に「来週からはここに集まらないで1人1人で行動しなさい」と留学担当のケリーに言われてしまいました。当初私は軽くパニックを起こしましたが、実際私・えりなとさき・さきは学年が違い授業では全く会わず、私とえりなの教室は違うことが度々あったので大して重大な問題ではありませんでした。この2人とはいまだに連絡を取っていて、今ではとても大切な友達です。

私のバディーは日本人でした。彼女はもうすでに約7か月オーストラリアに滞在していたのでとても英語が上手で、はじめの1週間は彼女が日本人であるということに気づきませんでした。彼女は「困ったらまず初めにネイティブの子に聞いてみて。もし望(私)が本当にわからなくて困ったときは私のところに来て。必要な時は日本語で伝えるよ」「座る席は先生の目の前か友達の近くがいいよ。困ったらすぐ聞けるし、私も初めの頃はそうしていた」と、優しい言葉や的確な助言をくれました。彼女と同じ教室の授業はほとんどなく、とても残念でした。どちらかというとえりなのバディーと同じことが多かったです。彼女も約7か月すでに滞在していて英語が達者で、最初の1週間程はとても優しくしてくれました。しかし、2週間目くらいから煙たがれるようになってしまいました。決定的な出来事はアートの授業のときに彼女の友達がかけていた音楽を口ずさんだら私に聞こえないくらいの音量まで下げられたことです。付きまとっていた自覚はなく、日本語で話しかけた記憶もなく、何をしてしまったのかわからず嫌われたことに2日間ほど一人で落ち込んでいました。家でも元気になれず、学校がどうだったか聞かれても適当に返してしまいました。マザーやファザーはその頃の私の態度に少し呆れていたように思えました。このままでは学校だけでなく家も居心地が悪くなってしまうと思い、思い切ってマザーに学校で辛いことがあったのだと伝えてみました。するとマザーは「きっと彼女は今ホームシックなのよ。彼女の不満をあなたがきいてみたらどう?あなたは今ホームシックじゃないわよね。私たちのところに来れてよかったわね!!」と、アドバイスをくれた上に笑わせてくれました。また、友達にも相談しました。すると友達は「1か月(留学期間)は短いのだからそれで悩むくらいなら彼女のことを忘れてしまえばいいのではないか」と言ってくれました。最終的に私は彼女の不満を聞くことはなく、登校最終日まで彼女と仲良くなることはありませんでした。しかし、彼女のことを気にしないで過ごした学校生活はより優雅で楽しいものになりました。悩んだときに相談するということは時に難しいことですが、自分を救う一番の方法だと思いました。

私の学校生活についてお話します。お昼に15人ほどでバレーボールをすることが日課でした。雨でグラウンドが使えないときには真実か嘘かゲームをしました。私もよくわかっていないのですが、このゲームは出されたお題についてあてられた人が答えるものです。私は「この学校に好きな人(恋愛感情)がいるか」というお題を受けました。私は友達という意味でいるよと答えてしまい、からかわれてしまいました。恋バナはとても盛り上がるトピックだと思います。授業はとても緩く、音楽を聴いている人やSNSを使っている人がいました。板書が見えなくて前まで行ったら、先生に写真を撮って自分の席で書いてもいいよと言われました。授業内容は基本簡単ですが、時々習っていない問題が出されることがありました。また、私は理科のクラスの中で頭が悪かったので、みんなが90点や100点をとる問題で毎回60点台をとっていました。しかし、このことを知らない友達に私が答えを見せてしまい、コピーした友達に60点をとらせてしまいました。ちなみに私は彼女の回答をコピーして90点をとりました。私のクラスメートは頭の上からスナックをかけたり服に水をかけたりしていました。とても不思議な光景でした。

登校3日目に迷子になりました。バスを1本逃し、慣れていないバスで帰ろうと試みたのですができず、学校でマザーを待つことになりました。しかし、待っている間にマックが異変に気が付いてくれて家まで送ってくれました。

私の家族は最初に言った通りとても多かったです。みんなとても優しくしてくれました。特に、一番一緒にいた時間が長かったのはマザーだと思います。マザーは私が安心できるように最善を尽くしてくれましたし、いつでも一緒にいてくれました。毎朝私の要求するサンドイッチを昼食用に作ってくれ、そのあと学校の前まで送ってくれたのです。お出かけするときもいつも一緒に来るか聞いてくれました。また、マザーが仕事仲間と食事会をしたときに私を連れて行ってくれました。私に色々なことを挑戦させてくれたのです。本当にとても優しかったです。しかし私は甘やかされただけではありません。毎日怠けていたので、「今日は家に帰ったら勉強したらどう」と提案されました。家で勉強をして待っていたら、マザーが褒めてくれました。とても嬉しかったことを覚えています。帰国日にはファザーと一緒にぎりぎりまで私のそばにいてくれましたし、別れの寸前には私の片頬キスをしてくれました。ファザーは冗談を言うのが好きでよく言っていました。私は彼の冗談がとても好きでした。彼は料理が上手だったので毎晩一緒に晩御飯を作りました。毎週金曜日の夜にマザーとファザーと映画を見るのが習慣でした。しかしファザーは怖いのが苦手でシャザムを見たときに怖がって部屋に戻ってしまいました。グランドファザーとはたくさん喋りました。バイク好きのファザーとバイクで遊んでいたときに「ブーブーうるさいのは誰だ!!お前か?」と言われました。怒っていたわけではなく、場を和ませようとして言ってくれたようで、私はファザーと目を合わせて笑っていました。シスターとブラザーとはあまり関わりませんでした。しかし、ご飯がおいしいか聞くとおいしいといつも良いコメントをくれましたし、話しかけたら必ず反応してくれましたし、学校の宿題も一緒に解いてくれました。私の帰国日におめかしをしていたのでひょっとして一緒に来てくれるのかなと期待していましたが、フットボールの観戦に行ったようでした。しかし、別れ際にハグをしてお別れをしてくれました。みんな優しくて大好きでした。ハナは私と一番たくさん遊んでくれた大切な友達です。車の中でハナとハリソンに挟まれて両サイドから「わー!!!」と叫ばれて「静かにして!!!」というくだりを10分くらいしていたのがとても楽しかった記憶として残っています。ハナのファザーは拍車をかけるように二人に「31!」と叫ぶことを促して場を盛り上げてくれました。ハナのマザーは話すのも聞くのも上手で、日本語学校に行く途中で笑いながら話したことを覚えています。

私はこの留学中に3種類の動物園、植物園、教会、フットボールの試合、ビンゴ、図書館、交番、ダム、チョコレイト工場などたくさんの場所に行きました。中でも一番記憶に残っているのはハナとハリソン(マザーの孫たち)の通う日本語学校に行ったことです。6時間目のアートの授業を途中で抜けて、ハナのお母さんに連れて行ってもらいました。そこでは複数の生徒に日本のことを聞かれ、日本の道具を紹介したりしました。具体的には筆ペンで自分の名前を書いたり、日本の文章を読み上げたり、ゴジラの話をしたり、みんなが受けている平仮名のクイズをやったりしました。その日はそのままハナの家に行ってハナの友達と遊んで晩御飯をご馳走してもらって家に帰りました。

学校の友達とは休日には全く遊びませんでした。休日は家族とお出かけすることがほとんどでした。一回だけインスタで遊びに誘われたのですが、しっかりチェックしていなかったので気づけませんでした。

私の留学生活は楽しいことも悲しいこともたくさん詰まったものでした。たくさんの経験ができたのは周りの人たちが私を気にかけてくれたおかげです。私の英語は満足できるものではなく、聞き取るのも理解するのも大変だったはずですが、友達や家族は絶対に私のことを一人にはしませんでした。今回の留学を経て、別の言語を話す人と接するときに大切なことは、言葉を上手に話すことよりも、相手を理解しようとする姿勢や関わろうとする姿勢なのだと思いました。

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