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英語科の短期留学レポート

英語科の短期留学レポート

中川 みちか の留学レポート

 

I went to Adelaide in Australia. I learned, we need say “Thanks” for own everything. In Australia, I was helped a lot of people. I felt Australian people is very kind. I remember to my host mother’s birth day things. That day, I thought I was cooking Japanese food for my host mother. Because, my host mother said “I like Japanese food.” She likes Japanese goods, food and culture. Therefore, when I gave Japanese souvenir for my host mother, she was very glad. I gave a Sumo pen. It was one of the souvenirs. It was a cute Sumo boy pen. However, the pen     was broken. I felt sad. However, she laughed. She said bad boy! She is so kind for me. Therefore, she was decorating bad boy to her house. Mother’s birthday, she said, “We can go to the Sushi restraint. Because, my old friend invited me and she said Michika is a Japanese student, so she wants go to there with you.” I was glad. Because, her friend to care about me. Therefore, I gave pocky for my host mother. In Sushi restraint, I met Sharan and her husband Peter. They looked so kind. Moreover, Sharan and my host mother were both close. I was shy and I did not talk mother and Sharan. Peter and I fall silent. I thought, if I will not talk with Peter, Peter would not talk with me. I was mustering up one’s courage. I was talking about many TV shows. I thought my English so amazing, but try is so important thing. Moreover, Peter was so kind, so he talked about him hobby and Saharan. I had a good time. I thought, if I did not talk there, I didn’t feel happy and glad, and the time was just memory. Moreover, I remember my school things. In my Australian school was very international school. Therefore, there were many kinds’ country students.

Moreover, there were some Japanese students. I feel relieved. They were very kind. I could go to city and shopping moil. I had a good time and we were good friends. However, I spoke Japanese. I had regaled. They can speak English very well. However, I did not speak English first one week. I thought, “This is not good.” Therefore, I will try speaking English to my Japanese students. Moreover, I could make Australian students. Moreover, same time, Indonesian students came in my Australian school. I tried talk in English. Indonesian students and I are good friends. I thought, try is so important things,Ⅰwill never forget this memories. Now I have a courage.  

 

7月22日にオーストラリア、メルボルンからアデレードまでの約1時間のフライトで私は「切実に、帰りたい。」と思っていました。飛行機から見える絶景なんてお構いなし。とにかく、緊張していたのと気圧の変動で耳が痛くて。寝られないけれど黙って目を閉じていました。つい、1日程前までは家族に「私、行ってくるね!!」なんて言って笑っていた自分がここにきて情けなく思いました。その時の自分は、何事にも甘い考えだったような気がします。留学に行く前の私は、何事にもなんとなく、中途半端な気持ちで取り組んでいたように思います。そんな気持ちのせいか、何をしても成果が得られず、そんな自分が嫌で、自分に嫌悪を感じたりしていました。ですが、こういう悩みは最終的には自分がどうにかしなければいつまで経っても変わることはできません。その事を気付かせてくれたのが私のたった一人のホストマザー、ニコルでした。ニコルは、パワフルでとても魅力的なマザーでした。学校への登校は、いつもマザーが車を運転してくれていました。登校の際はいつも、マイケルジャクソンのスリラーを車内に流していました。朝は目覚めると、鳥の鳴き声よりも、ギャーとかワー!などの叫び声が聞こえていました。これは、マザーの好きだったドラマがたまたま叫び声の多いドラマだったためです。私は、それを横目にトーストをかじっていました。マザーは、いつだって私を気に掛けてくれていました。ある日、マザーは私に一冊のノートを渡しました。私は、ホームシックにならなかったものの自分の英語のめちゃくちゃさに落ち込んでいた日もありました。そんな私を知ってか知らずか、マザーは白いノートを私に渡して「今日から、日記を始めよう」といいました。マザーがくれたノートは授業で使うというよりは、日記で使うようなノートでした。そしてそれは、箱に入っていてかなり立派なものに見えました。マザーは、それだけいうとリビングに戻っていったので、私もノートとペンだけ持ってリビングに向かいました。なんのけなしに、一ページ目を開くとdearのような文字が書かれていました。マザーにそれを見せると、マザーは、これは亡くなった旦那さんの文字だ。といいました。話を聞くと旦那さんも毎日日記を書いていたのだといいます。それから、私とマザーの日記の添削week

が始まりました。スペルミスや、文法チェック。最初は、モノクロだった日記もいつしか絵やデザイン豊富の鮮やかなものに変わっていきました。学校生活もそれと比例するように、だんだんと友達が出来たり、認められたり、助け合えたり、笑いあえたり。マザーが毎日笑顔を絶やさず楽しそうに過ごしているのを見て、私はいつでも感謝を忘れないように心がけていました。Thank you. その一言で、次からhelloと言われるのかはまさにその時の自分の対応次第。私には、ずば抜けた英語力がもともと備わっていたわけでもなく、話しかけてもらえるようになる魔法が使えたわけでもなく、唯一の武器と言ったらHi! とThank you!ぐらいでした。誰にでも話しかけよう精神は持っていたと思います。たまに、女の子だと思って話しかけたら、男の子だったり、学校関係者じゃない人に挨拶してみてり。いろいろな黒歴史は作ってきましたが、それはのちに思い出話になったり、笑い話に

なったりまたどこかで誰かを笑顔にできたり、誰かに勇気を与えることにだってなり得ます。Wood work という授業では木を使いました。インターナショナルな生徒は私だけで、簡単にいうと 四面楚歌 状態でした。また、木を扱うということもあってかその授業には男子生徒が多く、女子生徒は、私を含めても両手で数えられるほどでした。つまり、性別的な意味でもほぼ四面楚歌状態でした。そして、その女子生徒は大体の生徒が男子生徒とも仲が良いor 私よりも年上という、武器がHi! かThank you! しかない私には一番辛い授業でした。もちろん、その授業では「あの、日本人はなんでこの授業選択したのだろう?」とかいう声はちらほら聞こえてはいました。最初の授業の印象は、本当にやっていけるのかな。と不安になりました。ですが、二回目以降の授業で私はHi!とThank you!

を沢山使ってとにかく、意思表示をしまくりました。そうしたら、助けてくれる人が次第に増えていきました。それは、一回一回の言葉には少し時間がかかってしまうけれど、私なりに自分の成長を感じた瞬間でした。そしてだんだんと、授業もたのしくなっていきました。四面楚歌から一面楚歌ぐらいには、なったと思います。そして、周りの人たちから見て当たり前に出来ていることを自分が出来た時には、達成感というものがあります。私のマザーは、学校帰りもむかえに来てくれていたのですが、毎日「Did you have a good day?」

と聞いてくれました。私は、そんな小さな達成をマザーに聞いてほしくて、Yes! の後に少しずつその日あったことを話していきました。マザーはそんなワクワクした様子の私を見て嬉しそうでした。日記にも、かけることがだんだん増えていきました。そこで、私は思いました。きっと、自分の身近な人が幸せそうにしていると、自分までなんだか満たされていくように感じるのだろうなと。とは言え、無理に幸せそうにして不敵な笑みを浮かべると身近な人も不敵な笑みになりそうですから、注意が必要そうですが。不敵な笑みになった時気付いてくれる友達や家族は本当に大切な方々ですから、そんなときにしっかりと感謝を述べられる。そんな人になりたいなと思います。

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