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 今まで普通にできていたことができなくなったり、生活のリズムや周囲の雰囲気が変わって、戸惑いや不安な思いを感じる時があるかもしれません。そんな今は少し意識をして自分のペースを守り、深呼吸をしたり体を動かしたり好きなことをして、それぞれ自分の心と体を守って欲しいです。皆さん、無理しすぎないでくださいね。それに加えて、私のおすすめはお祈りです。

 お祈りにも色々あります。かしこまったお祈り、人前でのお祈り、自分だけしか知らない切実な秘密のお祈り、友だちに語りかけるような気楽なお祈りなどなど。皆さんも、大きな何かに向かって祈ったことがあるのではないでしょうか。

 聖書には、私たちと世界を造られた創造主なる神がおられて、私たちの祈りにも耳を傾けてくださると書いてあります。優しい天のお父さんです。この天の父なる神に、私たちの正直な思いや願い事を打ち明けてみてはいかがでしょう。上手く話さなくちゃと考える必要はありません。子どものように素直な気持ちを伝えるのがコツです。

 すぐに祈った通りになるとは限りませんし、その通りにならないことの方が多いかもしれません。それでも、その祈りは確かに聞き届けられ、私たちが思う以上に覚えられていて、最善の時に最善の形で応えられることが多いと思います。それに、祈ること自体が、自分を取り戻す時間にもなるはず。ぜひともお祈りを通して皆さんの心が守られますように!

 最後に有名なお祈りを幾つか紹介したいと思います。高尚過ぎて私には…そう感じるかもしれませんがご心配なく!このようなお祈りもあるのだなということで。May God be with you!!

 「フランチェスコの平和の祈り」
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
 理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによって とこしえの命を得ることができるからです。

「ニーバーの祈り」
神よ、 変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。

「マザーテレサの祈り」
主よ、きょう一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために わたしの手をお望みでしたら きょう、わたしのこの手をお使いください。
主よ、きょう一日、友を求める人々を訪れるために わたしの足をお望みでしたら きょう、わたしのこの足をお使いください。
主よ、きょう一日、優しいことばに飢えている人々と語り合うために、わたしの声をお望みでしたらきょう、わたしのこの声をお使いください。 
主よ、きょう一日、人は人であるという理由だけで どんな人でも愛するために、わたしの心をお望みでしたら きょう、わたしのこの心をお使いください。

「夏が来れば思い出す 遙かな尾瀬 とおい空」(江間章子作詞、中田喜直作曲)

私が思い出す夏の思い出は、やはり吹奏楽コンクールです。生徒と一緒に泣いたり笑ったりする活動は何にも代えがたいものです。いまだに、「あの時のコンクールでは大変でした…」などと卒業生と思い出話に花が咲くこともあります。

本校の吹奏楽部は、部員数の減少にも負けず今年もコンクールに挑戦し、F.レハール作曲のワルツ「金と銀」を演奏して銀賞を受賞することができました。今回は、プロの作曲家に依頼し、生徒たちの様子を伝えた北星女子スペシャルアレンジで取り組みました。当初は参加することすら危ぶまれていましたが、コンクール後の振り返りでは「このままでは参加は無理」「みんなの意識も低くて」から「どんどん上手くなってきて」「みんな意欲が出てきて凄いと思った」「今までのコンクールで一番楽しかった」など、生徒たちの“大きな成長”というには言葉が足りない“驚異的な成長”を遂げることができたコンクールでした。

時期を同じくして行われた、東京オリンピック2020は感動の連続でした。感動の理由は何だったのでしょうか。メダルラッシュだから?勝っても負けても礼儀正しい選手たち?感動の理由は、アスリートたちの自己へのチャレンジする姿だったのではないか、と私は思っています。自己へのチャレンジが感動を与えたのは、オリンピアンだけではなく吹奏楽部員の頑張りも遜色ないものでした。決して長いとはいえない学生生活、みなさんも是非部活動に参加し、自己へのチャレンジを楽しんでみてはいかがでしょう。

本校では中学1年生の行事でJICA札幌の「ほっかいどう地球ひろば」を訪問します。海外協力隊で活動した方からお話を伺ったり,施設内の様々な仕掛けに触れることで,JICAの活動や世界の現状について,学びます。ちなみに,併設されているレストランカフェ「地球こうさてん」ではリーズナブルなお値段で,世界の様々な美味しい料理をいただけます。機会があれば,是非訪れてみてください。

さて,コロナ禍で大変な状況で中止や延期する行事も少なくないなかで,今年度も7月に私たちを受け入れてくださり,無事に訪問することができました(JICA札幌の皆さま,本当にありがとうございました!)。そこで,私も生徒と同様に施設を探索しているなかで,ある展示()に目が留まりました。それがこちら!

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その名も『くらして初めて知ったどローカルごはん 日本で作れる世界のレシピとお話』です。

中身をパラパラとめくってみると,世界各国の料理が地域別・国別にその国を訪れた人の思い出・エピソードと共に紹介されています。これは面白そう!と感じ,帰宅後に即座にAmazonで購入しました。海外旅行にも気軽に行けない昨今,掲載されている料理やエピソードを見るだけでも異国情緒を感じることができます。さらに,この本の素敵なところは,日本ではなかなか手に入りにくい食材を,簡単に手に入るもので代替し,レシピを紹介してくれる点です。

このように書いている私ですが,実際のところ,ほとんど料理をしないので,だいたいの料理は目で見て満足してしまっています。しかし,そんな私でも簡単に作れそうな料理がありましたので,挑戦してみました。

その名は「デレレ」

「デレレ」とは,アフリカのザンビア共和国やジンバブエの郷土料理で,現地の言葉でオクラ,あるいはそのスープを指すようです。材料はオクラとトマトと塩と重曹,以上!作り方もいたってシンプル,オクラを輪切りにし,鍋にイン!!軽く浸す程度の水と塩と重曹を入れ,軽く煮立たせたら,なるべく小さくカットしたトマトを鍋に入れ,鍋の底が少し茶色っぽくなったらできあがり!!!

そして,私が実際に作った「デレレ」がこちら(ちなみに,私は重曹すらカットしています)

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1日目()は煮詰めすぎて,スープというよりはソースのようになってしまったので,リベンジしたのが2日目()です。どちらにしても,トマトの甘みやオクラの粘り気や旨味が存分に感じられ,紹介してくださった方が書いていたようにホッとする味でした。また,2日目にはクリームチーズを投入してみたのですが,これもまた,絶品!!やはり,トマトとチーズの相性はバツグンですね。ここにご飯を入れたら,トマトリゾットみたいになって…と妄想も膨らみます。

 せっかく,本を購入したので,これからも簡単な料理を少しずつやってみようかな,と思いました。皆さんも是非,この本を購入し,世界に思いを馳せてみませんか。

大学生時代に夢中になっていたものの一つに「インド旅行」があります。どうしてインドだったのか、少し振り返ってみたいと思います。

インドへの伏線は、中学生の時にさかのぼります。

 中一の時、英語の担当の先生から紹介されたペンパル(手紙による国際文通)はインドの男の子でした。「どうしてインドの生徒?」と心に引っ掛かるものがありながらもやり取りをしていたことがありました。中二のある時、週刊漫画雑誌の広告にあったネパール(インドとチベットの間に位置していて、エベレストがあるヒマラヤ山脈でも有名な国です)をテーマにした写真集『カトマンズ発 失われた風景を求めて』(中村保)の広告が目に留まりました。特に印象的だったのは「いつかのあなた いつかの日本を そこでみた」というキャッチコピーでした。

「遠く離れた国で自分や日本がどうして見えるのだろう?本当に見えるのだろうか?見えるとしたらどんな景色なんだろう?」という疑問が自然にわいてきて、その広告を切り取り、今でも大事にしまっています。南アジアに興味・関心が高まっていったのはこの頃からでした。

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 インドを強く意識するようになったのは高校生の時です。インドに行ったことがある知人の方から『河童が覗いたインド』(妹尾河童)を紹介してもいました。舞台美術家の著者が、全編手描き(文字もイラストも)で描いている空前絶後のインド読本決定版とも紹介されているもので、何度も読み返しては、いつかは行ってみたいなと思うようになりました。よかったら覗いてみてください。

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そして、インド行きの決心をしたのは大学1年生が終わるころの3月でした。私は大学の寮に住んでいたので、3月は卒寮をひかえた4年生たちが卒業旅行先(当時は海外が主流でした)から次々と帰寮して、寮のあちらこちらで土産話を聞くことが恒例となっていました。その中にインドから帰国した先輩が「インドでの体験は人生観が揺さぶられるものだった。卒業旅行といわずにもっと早く、インドに行くべきだった。君も行きたい国があるなら学生うちに行くことをすすめるよ。もし、インドに行きたいのならば、行ってみるべきだよ。」と話をしてくれました。この話を聞いて、これまでの自分の体験や思いが次々と線で繋がり、迷うことなくインドへの旅行を決意することとなったのです。

その後、費用の工面等もあって、最初にインドに行ったのは大学2年生の2月でした。

自分の思いが他者との縁によって実現し、自分自身の世界が広がっていく貴重な体験でした。

 インド珍道記については、また別の機会にお話ししたいと思います。

 

 

こんにちは!(もしかしたら「こんばんは」や「おはようございます」かもしれません)今回、ブログの記事を担当します理科教員の三浦誠司(みうらせいじ)と申します。好きな食べ物は「ゆで卵」(ガチガチの固茹でが大好きで、口の中の水分が黄身にもっていかれる感じがたまりません。ちなみに、青じそドレッシングで食べるのがgoodです!)で、訪れてみたい場所は「タルヴァザガスクレーター」(トルクメニスタンにある燃え続ける大穴で、通称「地獄の門」と呼ばれています。知らない方は早速ネット検索だーー!!)です。ちなみに、愛犬の名前は「ぼりぼり」です。(動物病院では、受付のお姉さんに「三浦ぼりぼりく~~ん」と呼ばれます!)

産業革命以来、人間は石油や石炭などの化石燃料を燃やし、そのエネルギーを利用することで文明を発展させ、経済を成長させてきました。その結果、大気中の二酸化炭素濃度は産業革命以前に比べ約40%も増加し、地球規模での温暖化を引き起こしています。地球温暖化に歯止めをかけるためには、化石燃料に依存した社会から脱却する必要がありますが、現実的にはその依存を急激に止めることは難しいため、化石燃料の使用を許容しながら大気中への二酸化炭素の排出を抑制する必要があります。その方法として、二酸化炭素海洋隔離への関心が高まっています。簡単に言うと、「二酸化炭素を海洋へ溶かしてしまいましょう!」という方法で、二酸化炭素を液化し、海洋深くに投棄するというものです。海洋が極めて多量の二酸化炭素を溶かし込むことができるため、大量貯留の方法として有望視されており、また、工学的な困難さが少ない技術とされています。私は、20年ほど前にこの技術について勉強する機会があったのですが、仕事で携わっていた研究テーマが環境問題の側面を有していることもあり、興味を引かれて詳しく調べたことをおぼえています。そして、調べていくうちに疑問が浮かびました。それは、「前述した二酸化炭素の液化やそのプラント製造の過程で、多量のエネルギーを消費してしまい、二酸化炭素を排出してしまうのでは?」ということです。つまり、地球温暖化を抑制するための工法を構築する過程で、地球環境温暖化を促進しかねないのではないか・・・と。そう考えると、これまで人間が行ってきた様々な環境問題への対策が薄っぺらく感じ、何が地球環境改善への本質的な打開策になるのかが分からなくなりました(まぁ、私の勉強不足のためなのですが)。現在では、クリーンエネルギーの使用による化石燃料依存型社会からの脱却が急がれていますが、これについても地球環境破壊の要因が全く生じないと断言できるものではないと考えています。もしかしたら、人間が科学的発展を伴う生活水準の向上を求める限り、どんなに科学が進歩しても、地球環境の本質的な改善は無いのかもしれませんね。

今日、こんなことを知りました。オリンピックで優勝者が手にする金メダルは、金の割合が7.5%しかない。銀が92.5%で、金メッキが6gほどしかないのである。メダルの価値は、貴金属として売っても8万円程度である。もっとも、このメダルが純金製であれば、約300万円の価値があることになる。 東京オリンピックでは339個の金メダルが授与されたので、10億円になります。オリンピック委員会にとっては、ちょっと高すぎる金額ですね。金メダルを獲得することは素晴らしいことですが、元々のオリンピックではメダルは与えられていませんでした。優勝者にはオリーブの枝が与えられました。オリンピックは、紀元前1200年頃にギリシャのオリンピアで始まりました。この大会は4年ごとに開催され、ギリシャ帝国中から参加者が集まりました。紀元393年、キリスト教を信仰していたローマ皇帝テオドシウス1世が「オリンピックは異教徒の祭りだ」としてオリンピックを禁止するまで開催されました。その後、1,500年もの間、オリンピックは開催されませんでした。その後、18世紀から19世紀のヨーロッパでは、古代ギリシャの文化に魅了された人々が現れました。1892年、フランスの男爵ピエール・ド・クーベルタンは、オリンピックを見直すことを思いつきました。人々を説得するのに数年かかりましたが、クーベルタンが説得に成功すると、IOCが設立され、ギリシャのアテネで近代オリンピックの第1回大会が開催されました。この大会以降、優勝者にはオリーブの枝と銀メダルが贈られるようになりました。現在の金・銀・銅のシステムは、1904年のセントルイスオリンピックから始まりました。もし、あなたが金・銀・銅のメダルを獲得したら、どんな気持ちになるでしょうか?面白いことに、心理学者の研究によると、銅メダルをもらった人は、銀メダルをもらった人よりもはるかに幸せだということがわかっています。銀メダルを獲得した人は、金メダルを逃したことで非常に悔しい思いをしますが、銅メダルを獲得した人は、単純にメダルを獲得できたことを喜びます。私はこのような心配をする必要はないと思いますが。

英語版

I learned this today. The gold medal the winners at the Olympics get is only 7.5% gold. It is 92.5% silver with only a gold-plating of about 6g. The value of the medal would be about $800 if sold for its precious metals. Although to be fair, if the medal was made of solid gold, it would be worth about $31,000.  There were 339 gold medals handed out at the Tokyo Olympics, which would have come to $10,509,000. That’s a little too expensive for any Olympic committee to afford. Winning a gold medal is a great achievement, but there were no medals given at the original Olympic Games. Winners were given an olive branch. The Olympic Games started in about 1200 B.C. in  Olympia, Greece. The games were held every four years and contestants came from all over the Greek Empire to take part. The games ran until 393 A.D. when the Roman Emperor Theodosius I, who was a Christian, banned them because he thought the Olympic Games were a pagan festival. There were no games for 1.500 years. Then, in Europe in the 18th and 19th centuries, people became fascinated with ancient Greek culture. In 1892, a French baron, Pierre de Coubertin, had the idea of reviving the Olympics. It took him a few years to convince people, but, when he did, the IOC was formed and the first Olympic Games of modern times were held in Athens, Greece. In these games and the following, winners were given olive branches and silver medals. The gold, silver, bronze system we have now was started in the 1904 St. Louis Olympics. How would you feel if you won a gold, silver, or bronze medal? Interestingly, studies by psychologists have found that people who receive a bronze medal are far happier than people who win a silver one. Silver medalists are very frustrated because they missed a gold medal, while bronze medalists are simply happy to have won a medal. I don’t think I will ever have to worry about this, though.

オリンピックついに始まりましたね!

テレビでしか観戦できませんが家では盛り上がっています。

先日、盛り上がりついでにオリンピックについて調べてみました。その中でも個人的におもしろいなと思ったものを少し紹介したいと思います。

1つ目は、「ピクトグラム」です。

トイレや非常口などを示す絵文字のことです。東京オリンピックが開催された1964年以前の日本では、空港をはじめ街中の案内看板のほとんどが日本語表記だったため、海外から来る人たちが一目で意味が分かるように、という思いから誕生したそうです。今では当たり前のように使われているので驚きました。

 

2つ目は「日本選手が初めてメダルを獲得した競技」についてです。

私は体操か水泳あたりなのかなーと思っていたのですが、なんと「テニス」だそうです。銀メダルを獲得したようですが…。

 

他にも調べていくと色んな雑学があり、面白かったです。

調べた上で観戦すると、また違った視点で楽しめるかもしれません。

ぜひ試してみてください!

今回は、長年チアダンス部の顧問をしてきて感じている、チアダンスの魅力についてご紹介いたします。

本校は「自分らしさを大切にし、他者とともに生き、輝くことができる女性」を目指して一人一人の個性を大切にする教育を行っています。その中で、毎日生き生きと活動しているチアダンス部の選手たち。でも、その選手たちが目指すものは「みんな同じ」「没個性」の演技。いかに揃えるか、いかに皆が同じ動きができるのか、ということが求められる競技。手や足の高さや向き、身体の向き、表情、技のレベル、全員が同じ動きをし、シンクロすることが求められる。同じユニフォームを着て、同じポンポンを持ち、同じ髪型にして、同じリボンをつけ、同じように見えるように化粧をする。

 一人一人は全く異なる個性を持ち、一人一人がとっても魅力的な娘たちが、その個性を打ち消して全員が一つの演技を構成する「選手」になっていく。大会前には細かな動きやタイミング、表情や呼吸までも揃えていく。全員が同じ動きができるように、何度も何度も練習を繰り返す。背の高さも手足の長さも違う選手たちが、いかに同じように見えるようになるのか、綿密で、地道な練習を続ける。ジャンプやターンなど、難易度の高い技も全員ができれば高得点となる。できない選手は必至で練習をし、それでもできないと、難易度を下げた技になる。時には目立たないように小さくなっていることが求められる。できなくて、悔しくて何度も何度も練習し、お互いに指摘しあう中で、うまくいかずに涙が出る選手も毎回いる。大会直前にはお互いの気持ちがぶつかり合って、声が荒くなり、部活全体がピリピリとした雰囲気になる。

 そして大会当日、2分半の演技にすべてをかける。この仲間と踊る最高の演技を目指して一人一人が最高の笑顔で、精一杯、全身から溢れるエネルギーを発して踊り切る。辛く苦しい練習を仲間とともに乗り越えてきたからこその一体感。全員が同じ動き、同じ表情、同じ呼吸で踊り切る高揚感。終わった瞬間の達成感。笑顔。涙。それぞれの思いがあふれる。没個性の中の魅力は、そんな中で生まれる。

中学チアダンス部は3年連続全国大会に出場している強豪校に育ってきました。そして、そこから上がってきた生徒たちを中心に、高校チアダンス部も今年は念願の全国大会に出場できることになり、7月末から大阪で開かれる全国大会に出場してきます。

個性的で、魅力あふれる娘たちのドラマの続きも、是非ご期待ください!

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私の最近の趣味は、自宅の屋上で野菜を育てることです。

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所狭しと並べたプランターに、トマトやナス、キュウリやピーマンといった夏野菜の苗を植え、種から育てたクレソンやサニーレタス、しそやじゃがいもなど。こんなに盛り盛りと成長するまでに、寒さに耐えかねて死んでしまった苗もあったり、土と苗の生育の相性が合わず遅々として成長しない苗など、失敗はたくさんありました。それでも毎日、水やりを欠かさず、日ごとに苗たちの様子を観察します。肥料は足りているかな?土が湿っているから今日はお水を減らしておこうかな?

2それぞれのプランターに耳を傾けながら一か月が経過し、気が付くとこんなにキュウリが実っていました。小学3年生の息子と一緒に収穫してみると、とても瑞々しくて甘い味がしました。息子も楽しくなってきたのか、一生懸命観察日記を書いています。植物は、その生育環境の条件がそろえば、必ず芽が出て成長し、果実をつけてくれます。その果実が実るまでじっと待つしかないですが、こうしてカタチとしてこの世に姿を現してくれると、この上ない喜びに浸れるものです。

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その中で一番手ごわかったのが、このイチゴです。こちらの苗は昨年の春に購入しましたが一度も実を結びませんでした。でも来年は何か変化があるかもしれない…と、その苗の成長                    を信じて毎日欠かさずお世話に勤しみました。すると今年の春、こんなにたくさんの実をつけてくれたのです。鳥に狙われることもなく、子どもたちと甘いイチゴを堪能できました。                     植物にもその種類によってさまざまな成長がありますが、人間にもそれは言えることです。「学校」という場はどうしても子どもたちの学習成果を求めがちですが、その実り方は人それぞれです。成長する環境の条件がそろうことで、確実に私たちの目に見えない土の中でたくさんの根を張っているのです。素敵な果実が実ることを信じて、「待つ」ことを楽しめる、そんな教育活動を実践していきたいです。

私たちの周りにある木や花や草について考えたことはありますか?それは、その美しさや香りを楽しむことではありません。植物と私たちとの関係について考えたことがありますか?植物がなければ、私たちは存在しません。これには2つの理由があります。

              1つ目は、初期の植物が複雑な生物に適した環境を作ったことです。地球が誕生してから冷えるまでに約10億年かかりました。その間、火山によってCO2や温室効果ガスが大気中に放出されていました。生き物がそれを吸うことは不可能だったでしょう。約25億年前、単純な菌類から植物が進化し始めました。この植物は光合成をします。つまり、太陽光のエネルギーを利用して、二酸化炭素と水を糖に変えるのです。その際、副産物として酸素が得られます。20億年の間に、これらの植物はゆっくりと地球上に酸素を供給していきました。541百万年前には、空気中の酸素濃度が高くなり、複雑な生命が進化し始め、カンブリア紀の爆発と呼ばれるこの時期に、複雑な生命は急速に進化を始め、地球上に生息するようになりました。私たちはそれよりもずっと後に誕生しましたが、植物が酸素を生み出してくれなければ、今の私たちは存在しませんでした。

              次に、植物がなければ、私たちはエネルギーを得ることができません。植物は、地球上で唯一、太陽光から食物を作り出すことができる生物です。これを独立栄養生物といいます。私たち人間にはそれができません。お腹が空いたとき、あなたはどうしますか?外に出て太陽を見ますか?そうではなく、何かを食べて、そのエネルギーを利用するのです。人間は食べ物をエネルギーに変えるのは得意ですが、自分でエネルギーを作ることはできません。私たちは植物を食べて、その植物が作ったエネルギーを使います。あるいは、動物が植物を食べ、動物が植物から奪ったエネルギーを使って、私たちが動物を食べます。植物がなければ、私たちはエネルギーを得ることができません。

              ですから、今度公園を歩いたり、木の下に立ったりするときには、私たちがどれだけ植物に依存しているかを考えてみてください。植物がなければ、私たちは存在しません。

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