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F1カーは逆さまに走れるか?技術的には可能ですが、多少の改造が必要かもしれません。

F1レーシングカーは、世界で最も速い車の一つです。F1 カーで到達した最速の速度は 397.36 km/h です。これは陸上速度の世界記録である1227.985km/hには及びませんが、これは本当の車ではありません。どちらかというと、ロケットの上に座席を乗せたようなものです。

F1マシンが逆さまに走れると思われている最大の理由は、ダウンフォースを発生させることができるためです。車には前部と後部に翼があり、その下に空気を押し込んで車をコースに押し付けます。そのため、グリップが効き、スピードが上がり、減速することなく曲がることができるのです。飛行機の翼とは基本的に逆です。飛行機の翼は、翼の上部を下よりも速く空気が移動するように強制します。空気が速く動くと、翼の上に低圧領域ができ、翼はその力によって持ち上げられます。F1マシンは、これとまったく逆の動きをします。空気が翼の上より下に速く移動すると、車の下に低圧領域ができ、車は地面に吸い寄せられる。クルマのスピードが上がれば上がるほど、ダウンフォースは大きくなる。

では、F1レーシングカーは逆さまに走ることができるのでしょうか?はい、でも3つの問題があります。1つ目の問題は、到達しなければならない速度です。F1マシンのドライバーを含めた最低重量は789kgに設定されている。この上に約110kgの燃料が乗っている。(ちなみに、F1マシンは1リットルあたり約0.75km。普通のファミリーカーは1リットルあたり約28km) そのF1マシンが130km/hで走るときのダウンフォースは、車の重量と同じになる。問題は、もしこの車がトンネルの上を逆さまに走っていたら、重力の関係で車の重さに引っ張られ、車の重さのダウンフォースはゼロに等しくなり、車はグリップできず、動くことができないのです。つまり、クルマはグリップせず、動くことができないのです。グリップするためには、ダウンフォースを2倍にする必要があります。ダウンフォースは直線的に増加するわけではないので、2倍のダウンフォースを得るためには、車速を1.4倍にすればよいことになります。つまり、時速190kmで走ればいいのです。F1マシンは常にこれを超えているのですから、これは明らかに可能です。しかし、ドライバーがそれを逆さまにできるかどうかは、また別の問題です。

2つ目の問題は、エンジンです。F1カーのエンジンは、逆さまに動くようには設計されていません。F1カーのエンジンは普通の車よりはるかに優れていますが、それでも重力に頼っていることに変わりはありません。燃料ポンプが燃料パイプを通して燃料を吸い上げるためには、燃料タンクの底に燃料がある必要がある。クルマが逆さまだと、エンジンに燃料が行き渡らない。また、エンジンのピストンは、その下に噴射されるオイルで潤滑されています。余分なオイルは重力によって下へ流れ、取り除かれる。もし車が逆さまになったら、この余分なオイルがピストンを越えて垂れ流し、燃焼室に入り込み、車全体が爆発するかもしれない。逆さまでも動くようにエンジンを改造することは可能だが、それなりの工夫が必要である。アクロバット飛行機のエンジンは逆さまでも動くので、そのように調整すれば可能だろう。また、電気エンジンでも問題は解決できますが、その場合は車重がかなり増えてしまいます。

3つ目の問題は、トンネルそのものです。トンネルの屋根は完全に平らでなければなりませんが、そこに至るまでにはコークスクリューのようなスロープが必要です。F1マシンは圧倒的なダウンフォースを持っていますが、それでも反転してしまうことがあります。片方の車輪が地面から浮いて2度を超えると、ダウンフォースは揚力となる。そのため、F1カーは時々反転してしまうのです。逆走を試みるためには、トンネルへのスロープを、F1カーの4輪が常に地面についているような構造にして、揚力がかからないようにしなければなりません。

では、F1マシンは逆さまに走ることができるのだろうか?このような偉業に対応できるようなクルマを用意するのは相当な労力が必要ですが、可能です。しかし、その場合、ドライバーのリスクは大きくなります。トンネルの屋根から逆さまのまま墜落するのは、非常に危険なことです。このような実験をするのであれば、まずは無人運転のクルマでやってみるのが合理的です。そして、これが今日学んだことです。

長いような短いような夏休みが終わりました。静かだった校舎に再び活気が溢れ,少しずつ日常を 

取り戻しつつあります。生徒たちはこの後すぐに訪れる定期試験に向けて,必死に勉強をしています。ところで,夏休みといえば,何を思い浮かべますか。青い空,白い雲,熱い太陽,冷たい海何より忘れてはならないのは,そう宿題ですね! 

 

本校の中学2年生は「商品開発」に取り組みます。企業に協力していただき,半年~1年近くかけて構想から,実際の商品・製品の発売まで行います。詳しい内容や過去の事例は以下のURLをご参照ください。 

 

 

今年は白い恋人でおなじみの石屋製菓さんが協力してくださり,夏休み前に,白い恋人パークに訪問させていただき,体験や美味しいものを食べたり,企業理念やマーケティング等々について中学生にもわかりやすく教えてくださいました!そして,石屋製菓さんが設定したテーマに沿って中学2年生はどんな商品を作りたいか考えて,絵などを用いて表すコンセプトシートを夏休み中に作成しますコンセプトシートを目にすると,大人にはない柔軟な発想に驚かされることもしばしばです。 

 

定期試験が終わると,商品開発が本格的に始動し,コンセプトシートの内容をより具体的にし,実際の商品に近づけていきます。構想を練るのは全員ですが,実際に商品化まで為されるのは,数名です。そのためには,教員や企業の方に対し,自分の商品をプレゼンしなければなりません。商品自体も重要ですが,自分の考えた商品が,いかに魅力的か,どれだけ素晴らしいものか,を伝える技術も必要になります。プレゼンはPowerPointが基本ですが,過去には商品の良さを伝えるために,自宅で試作し,それを教員に食べさせ,感想を述べてもらった動画を流す,という人もおりました。今年もこの後,中学2年生の皆さんがどのように創意工夫を凝らし,商品開発を進めてくれるのか楽しみでなりません。 

 

また,商品開発に携わることは私たち教員にとっても学ぶことがたくさんあり,とても刺激になります。普段,私たちが商品を手にとるまでに,目に見えない流れが想像以上にあり,とても多くのひとが関わっているのだということを学ばせていただきました。普段はなかなかできないこと,感じられないことを生徒と共に体験し,学ぶことができるのも,教員という仕事の醍醐味なのかもしれません。 

 

というわけで,私の夏休みの宿題はこれでおしまいです!お付き合いありがとうございました!!

今日、こんなことを知りました。現代のアイスクリームが発明されたのは1695年。アイスクリームそのものがいつ発明されたかは誰も知らない。

氷のデザートは、氷がなければ成立しない。よほど寒い国に住んでいる人でない限り、冷蔵庫が発明される前は、氷を持つには氷室を使うしかなかったのです。最初の氷室は、メソポタミア北部の町テルガに導入された。紀元前1780年にジムリ・リム王が作らせたものだ。寒冷地から運んできた氷を、わらやおがくずで断熱して氷室に貯蔵していた。中国に初めて氷室が登場したのは紀元前7世紀。氷を買える人は冷たい飲み物を飲み、アレキサンダー大王が好んで飲んだのは、蜂蜜とワインで味付けした氷の飲み物であったという。しかし、これはまだアイスクリームではない。

これらの氷の飲み物は、シャーベットに進化した。ペルシャで始まり、商人によってイタリアに持ち込まれた。アラビア語でシャラブ、それがイタリア語でソルベットとなった。イタリア人はこの凍らせた飲み物を取り入れ、より多くの種類を作り始めた。ソルベの最初のレシピ本は、1694年にナポリのスペイン総督アントニオ・ラティーニによって出版された。この本には、レモン、イチゴ、チョコレート、ナスなどのフレーバーが載っていた。これらはまだ、アイスクリームとは言えないが。

牛乳と米を凍らせたデザートを作ったのは、中国とされている。馬乳や水牛乳に米を混ぜて、凍るまで雪の中に埋めておいたのだ。これは西暦600年頃のことのようですが、もっと後のことかもしれません。また、モンゴルで始まった風習である可能性もあります。

アイスクリームへの道のりで大きな発見は、紀元4世紀にインドで発見された吸熱効果である。これは、ある物質から別の物質に熱が引き出される現象です。牛乳を凍らせるには、熱を奪うのに十分な冷たさの氷が必要です。普通の氷を使っても、牛乳は冷やされるだけです。そこで、氷に塩を加えると温度が下がることを発見した。塩を入れた氷は、牛乳の熱をより多く引き出し、凍らせることができるのだ。

アントニオ・ラティーニが1694年に発表したレシピの中に、ミルクソルベのレシピがあった。これは、史上初のアイスクリームとしてよく引き合いに出される。しかし、私たちが今食べているアイスクリームとはかなり違う。

1718年にロンドンで出版された『Mrs. Mary Eales’s Receipts』にアイスクリームのレシピが載っている。これはお菓子のレシピ本だが、アイスクリームは文字通りクリームを凍らせただけのものである。

1742年にフランスでニコラ・オーディジェというシェフが初めて書いたアイスクリームのレシピには、卵黄が含まれており、アイスクリームをかき混ぜる必要があった。卵黄はクリームをより濃厚に、より滑らかに、よりリッチにするため、これは非常に重要なステップです。また、かき混ぜることによって、氷の塊ができるのを防ぎ、アイスクリームに空気を含ませることができます。

アイスクリームはイギリスにも伝わり、チャールズ2世が好んで食べたことで知られています。しかし、氷室も砂糖も非常に高価だったため、アイスクリームはまだ富裕層の食べ物だった。19世紀半ばまで、アイスクリームは大衆の食べ物ではなかったのです。

アイスクリームが大衆に親しまれるようになるには、いくつかの変化が必要だった。まず、砂糖の価格が下がったこと。砂糖は、1500年頃から手作業で栽培され、手作業で精製され、多大なコストをかけて大西洋を渡って輸送されていた。1747年、甜菜糖が発明され、価格が下がった。そして1768年、砂糖の精製が機械化された。これら、いくつかの進歩により、砂糖のコストは大幅に下がった。

第二の変化は、氷の価格が下がったことである。産業革命で都市に住む人が増えてから、氷の生産が盛んになった。氷が安くなり、ほとんどの家にアイスボックスが置かれるようになった。氷が安くなり、ほとんどの家でアイスボックスが買えるようになり、冷凍食品を家に置く、あるいは作ることが容易になったのです。

1851年、カルロ・ガッティというスイス人が、英国で最初のアイスクリームスタンドをオープンさせた。彼はチャリングクロス駅前にオープンし、シェルに入った氷を1スクープを1ペニーで売った。これは今のお金に換算すると約3ドルです。

アイスクリームの普及を飛躍的に助けたのは、アイスクリームメーカーの発明である。1843年にトーマス・マスターズというイギリス人とナンシー・M・ジョンソンというアメリカ人が、機械化されたアイスクリームメーカーを発明したのである。

そして、1851年、アメリカのペンシルベニア州クエーカーに最初のアイスクリーム工場がオープンした。乳製品を配達する仕事をしていた彼は、転職を決意する。彼は大量の牛乳を手に入れることができ、安くておいしいアイスクリームを作ることができたのだ。彼はすぐにアメリカ東海岸にアイスクリーム帝国を築いた。彼は「アイスクリーム卸売業の父」と呼ばれている。

つまり、氷菓は4,000年近く前に発明されたと思われるが、現代のアイスクリームは17世紀に発明されたばかりなのである。と、こんなことを今日は学びました。

 「何か育てたい!」。これは最近の我が家の息子の口ぐせです。我が家にはウサギの茶々丸くんがいて、「ウサギを飼ってるから、それで十分じゃない?」と言うと、「ううん、それじゃ足りないの。もっといっぱい何か育てたいの」と答えます。

 

 4月。学童保育から帰ってきた息子がティッシュで包んだ何かを持ってきました。「おやつで出たポンカンに立派な種がたくさんあったから、持って帰ってきた。これを育てたい!」…とりあえず鉢に植えてみました。すると1か月後に芽が!大喜びで毎日せっせと水をあげ、けっこう立派に育ってきました。

 

 5月。今度は金魚を5匹持って帰ってきました。5匹!!全部に名前をつけ、えさをやり、かわいがっていましたが、もともと弱かったのか、1匹が病気になるとあっというまに5匹全部病気になり、かわいそうでしたが2週間で死んでしまいました。1匹いなくなるごとに庭にお墓をつくり、号泣し、お線香をあげる息子でした。

 

 6月。さらに今度は「金魚をうめた庭に、金魚がさびしいだろうから何か野菜を育てたい。」と言い出し、枝豆・人参・はつか大根・シソの種を植えました。これまたせっせと毎日水をあげ、芽が出てきました。ところが、ある日シソの芽が荒らされていました。野良猫ちゃんのしわざかね、仕方ないね、と言いましたが「シソがかわいそうだ」とまた号泣。

 

  

 

 

 

 

ポンカン                

カブトムシ

 

7月。ホームセンターの一角でじーっと何かを見つめる息子。「去年はクワガタを育てたから、今年はカブトムシを育てたいな…」と不穏なことをつぶやいています。根負けし、オスを購入。すると「一匹だけじゃかわいそうだよ。仲間がいないとさ。ちゃんとお世話するから」…ということでメスも購入。名前をつけ、毎日ちゃんとお世話をして観察しています。…でも、すいぶん「育てる」ものが増えてきたねえ。テーブルの上が鉢と飼育箱でいっぱいだよ。

 

 そして先日。「ただいまー!ピーナツの苗を5個、もらってきたよー!育てようー!」。ピーナツ!!どうやって育てるんでしょう!?しかも「ピーナツだから鳥が食べちゃうと思うから、外には植えない」のだそうです。ああ、家の中がどんどん鉢に占領されていきます。

 

 …息子の「育てたい!」ブームはまだまだ続きそうです。「育てるもの・生き物」が増えるとお世話がとても大変です。でも、育っていく様子を眺めて喜び、かわいがり、「死んでしまった」と号泣したり悲しんだりするのは、子供の成長にはとても大切なものだなあ、と感じます。日頃、息子の「育てたい!」に振り回され、ブツブツ文句を言っている私ですが、実はけっこう楽しんでいます。…ちなみに、息子が次に育てたいものは「おばけエビ」だそうです!

 

 

最近我が家でブームになっているのは,雪の妖精『シマエナガ』グッズを集めることです。今まで,白くてかわいい鳥の人形やシールなどを見かけていただけで,名前や生息地はおろか実在するのかも知りませんでした。しかし,今年の2月釧路に行く用事があり,1日フリーな時間があったので,『釧路に来たら鶴でしょ!』ということで,タンチョウを探しに鶴居村へ行くことにしました。鶴を見るなら鶴見台かな?とあまり調べずに出発しました。向かう途中に、民家のお庭に2羽のタンチョウが!慌てて写真をパシャパシャし,見ることができたからと満足しましたが,一応向かってみるかとまた出発。そして、鶴見台に到着してみると…。なんとびっくり!100羽近くのタンチョウがいるではないですか!見れなかったらどうしようとか、途中で見れたから満足と思っていた自分が恥ずかしくなるような量のタンチョウに衝撃を受けて,嬉しくなって帰ろうと思いましたが迎えにお土産屋さんが。『鶴のお土産はいらないよ』と言われていたので,見るだけと思い入ってみるとそこにはなんと!シマエナガグッズがたくさんありました!もちろんお土産に大量買い。この可愛い鳥は釧路にいるのか!と思い,次はこの鳥を見に来ようと心に決めて札幌へ帰りました。

 札幌に帰り4月になって迎えた4年生のルーキーズキャンプ。そのホテルで衝撃の事実が判明しました!なんと定山渓にもシマエナガが出没するらしいと。生息地域が気になってようやく調べてみるとさらなる事実が!家の近くの野幌森林公園や学校の近くの円山公園・近代美術館でも目撃情報が!それからというもの,森の近くを通るときや,鳥を見かけたときにはシマエナガではないかと注意してみるようになりました。森に探しに行こうと考えているその時!なんとシマエナガを発見しました!場所は学校のスタディラウンジ…。そうなんです。6年生の頭の上に可愛い鳥が…。見つけてつい声をかけてしまいました。その後も2年生の緑の教室で見た靴下や,3Aの教室にあったモビール…。本物ではなかったけどなぜかうれしい気分になりました。本物は冬に目撃情報が多いようなので,何とか次の冬には本物のシマエナガを見つけたいと思います!

  新聞の投稿欄に目がとまった。今から77年前に終わった太平洋戦争を生き抜き、数年前に他界した私の両親と同じ世代の高齢の女性からの投稿だった。投稿された女性は過酷な体験を経て終戦をむかえた。にわかには受け止めることが出来なかった戦争のない社会の到来を生活の中で体感して受け取れるまで時間が必要だったこと。戦争が終わってから77年間、戦争が終わってから始まった「戦後」がずっと続けて欲しいと願いながら生きてきたことが綴られていた。しかし数か月前ヨーロッパで始まった戦争のニュースを知り、自分が高齢になり社会と人々の日常が少しずつ変化していくのを感じ始めながらも心中で祈り願い続けてきた、続いて欲しい「戦後」の文字が薄れていくのを感じ始めていることに気がついたこと。今社会に漂う空気は自分が青春時代に過ごした空気に似てきたように思う。そして、その時代の空気を吸って「戦争」をむかえた者にしかわからない記憶が頭をよぎろうとする時、薄らいでゆく「戦後」の文字が気がつくと「戦前」という二文字に置き換わろうとしているように見える、と言うものだった。全てのことが突然起こるのではないと思う。「戦前」という二文字は突然私たちの目の前に現れるのではない。未だにあの時の衝撃か消え去らない“東日本大震災”、今まさに渦中にある“新型コロナウイルス感染症”からの問いかけに、私たちはまだ答えていない。私たち人間が地球上にある全てを手中にしたかのような生き方を続けていることへの警鐘に対して。

我が家の台所に小さな出窓,そこにはいつもおもちゃが置かれています。爪の折れたティラノサウルス,しっぽのちぎれた魚,動かなくなったコナン君の時計…そこは,子供たちが遊んでいるうちに壊れてしまったおもちゃを置く場所。お父さんはそれらを直すおもちゃドクターです。

瞬間接着剤や,パテなどを使い恐竜を直し,精密ドライバーで時計の裏蓋を開けて,配線の確認,レジンで無くなったパーツを再生など,その修理は様々です。ちいさな部品は作業が大変で,絨毯の上に落そうものなら,もう大変!でも,次の日の朝におもちゃを受け取る子供たちの笑顔が大好きです。

 

そんな日々を送っていると,妻と子供たちから一つのオーダーが入ります。「Switchのジョイコンスティックが正しく動かず,『集まれ動物の森』ができない!」というものです。勝手に動いて,穴が掘れない…というのです(共感できる人いるよね?)が,僕はゲームをしないので一体なんのこっちゃ…?!さっそく症状を確認します。家族の期待を一身に背負っての修理でした。次の日の朝,動作確認をお兄ちゃんに頼みます。ばっちり直ったようで安心しました。

最近のおもちゃは電子部品が多く、修理が複雑です。しかし、基本は電源からのプラスとマイナスを確認し、電流の流れを追いかければ故障個所が突き止められます。あとは故障した部品を修理・交換すれば終了です。理科の授業でならった,乾電池と豆電球の仕組みと同じですね。

電力を使用しないおもちゃは,可動部分の破損がほとんどです。ひもが切れた,ヒンジ部分が外れるなど、こちらの修理のほうが大変です。物理的に壊れてしまったものは,僕の手に負えないものが多いからです。まだまだ修行が必要です。

 我が家の怪獣たちの遊び方はずいぶん激しいので,もう少しおもちゃドクターは活躍しそうです。息子たちよ!いつだって直してあげるから,これからも仲良く遊んでね!

 

 

 

 

 

 

ときどきぼんやり写真を眺めたりします。そこからストーリーが見えそうな奥行きのあるものにひかれるのですが、以前たまたま渡部雄吉さんの『張り込み日記』という写真集に目がとまりました。1950年代に実際の(!)捜査に張りつき撮った写真らしいのですが、漂う緊張感や雰囲気にひかれ、この写真集のみならず、別の出版社から出された後発の写真集も買ったくらいです。

 ところが、この後発版がどうもしっくりきません。同じ写真が載っているので、細かい違いはあるにせよそんなに違うはずはない。そう思い、繰り返し見比べてみましたが、やはり印象は変わらず……わけがわからないまま、その疑問だけがずっとくすぶっていました。後発版は先のものを意識してか、写真だけでなく、合間に名うての作家さんによる事件概要の書き下ろしや凝ったデザイン、構成など制作側の意気込みが伝わるような気合いの入ったつくりになっていて、見るまではそれも楽しみにしていたのです。ですが、あとで振り返ってみると、どうもそれがノイズになっていたのではと思うようになりました。

 それは、写真の好みで言うと鮮やかすぎるものよりも彩度を抑えた方が、カラーよりもモノクロのほうが好みだと意識し出したこととつながっていると感じます。感覚なので微妙なことばづかいになってしまいますが、適度に隙間があった方が見ていて心地よいというのでしょうか。見ていてイメージ的な何かを盛り込めないと楽しくないのだと思います。鮮やかすぎるものはその鮮やかさに圧倒されて、きちんと見られない、あるいは見るだけのキャパが自分にはなくなっているのかもしれません。

 ただ、そういう余白を読むのは、時間があればなかなか楽しいものです。自分にとっては広告のコピーもそうした素材の一つです。学生時代の授業がきっかけですが、限られた情報で読み手のイメージをかき立てるというテーマが明快で、その意味でとても良く出来ています。

 以前、「野菜を見ると、想像するもの」というコピーがありました。ことばはこの一言だけ、あとは紙面の端に赤ん坊を模した人形の、例のシンボルマークのみ。読み手が両者をつなげれば、マヨネーズなりドレッシングなりが思い浮かぶようになっていて、広告としてとてもよくできている。と同時に、そうでないことも思えるすきまも持っていて、広告としての機能を持ちつつ、それ以外の世界にも読み手を誘えるこのバランス感覚の絶妙さに感嘆したものです。

 ネットで知りたい情報をひたすらかき集めるのも楽しいのですが、たまにはこうして隙間を楽しむのもよいものです。最近、俳句がメディアで取り上げられているのは、そう思う人も少しは増えたのかな、などと思ったりもしています。

 

 

 

 

 

私は校庭がとても好きです。200万都市の中心にこんな緑豊かな校庭のある学校で仕事ができるのはとても恵まれていると日々感じていいます。市内北一条西4丁目から現在の南4条西17丁目に本校の校舎が引っ越してきたのは、今から95年ほど前のことです。三度目の引っ越しで現在の場所になりました。この場所に引っ越すことが決まった時、「どうして札幌の街はずれのあんな場所に移らなければならないの?」という声があがったそうです。それほど今の場所に引っ越しした当時は、札幌の西の外れにあったのですね。約6000坪の土地を購入し、長い間願って来た校舎を当時札幌農学校で教鞭をとっていたスイス人マックス・ヒンデルの設計で建築されたのでした。ですから北星女子中高の校舎は今もどこか西洋風です。例えば校舎内の教室だけでなく多くの部屋の戸は、ほとんどが開き戸(ドア)で引き戸は殆どないことを在校生のみなさんは気が付いていたでしょうか。後になって約1000坪の土地を購入して、校舎が敷地にゆったり配置されている形になりました。先日来校した関西の名門中高の先生が本校の校舎と校庭を見て回った後、「何てゆったりした校舎と校庭何でしょうね。意地悪く言えば何と無駄が多いのでしょう」と羨ましそうに笑いながら話してくれました。私はそんな無駄のある校庭がとても好きなのです(校舎も)

校庭は4月から11月までの8か月間、花々が途切れることなく咲き続けます。校庭の雪が解けてしばらくすると、スイセン、ゆきやなぎ、桜(市内で一二番目に早く咲きます)。もくれん、チューリップが続き、リンゴ、梅。そして私たち女子中高のみんなが愛してやまないライラックが咲き始めます。校舎の中にいてもライラックの香りがかおる私たちにとって大切な季節、スミス先生ありがとうございますと声に出したい気分になります。

そして6月。校庭を散策すると、はまなす、ルピナス、どうだんつつじ、アザレア、ベニバナとちの木(ドイツ語でKerzenbaumと呼ばれています)、そして足元に咲く可憐なひな菊。本当に花々がきれいな季節です。その中を冬服から夏服にかわった生徒たちが登下校する姿は、校庭に咲く花々と共に初夏の訪れを知らせてくれます。

 

 

風景画を描くときに、「真っ直ぐな直線部分」どのように表現しますか?

建物や道路、ガードレール等です。

つい、定規を取り出してしまうことはないでしょうか?

その結果、真っ直ぐな線が非常に目立って違和感が出てきます。

 「定規で描かないで、フリーハンドで描きましょう」という説明を、聞いたことがあると思います。今までの作品や風景をもう一度、観察してみましょう。

 例えば、ガードレールには、歪みや、錆による塗装の剥がれがあるのに気が付くと思います。ブロック塀を見ても、一つ一つブロックの角度が違ったり、欠けや割れがあります。道一本描くのにもかなり微妙な傾斜の表現が必要です。

その他、多岐にわたって目を凝らすことで、発見することが多く出てきます。

 気が付いた歪みや、時間が経って風化したところをできるだけ発見しどの様に表現するかを考える。少し強調して表現してみてください。個性的な作品に仕上がります。

自分ならではの表現方法を探求できる機会にたくさん気付くことでしょう。

扉 2015年 F8号 パネル・油彩 波田浩司

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