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 夏休み中盤の8月上旬、私は鹿児島へ行ってきました。目的は高校演劇の全国大会を観に行くため。ウチの学校が出場したわけではないのですが、私自身、高校時代に演劇部だったということもあり、毎年の恒例行事になっています。高校野球ファンが毎年甲子園を観に行くのと同じ原理です。 

 

 しかしながら毎年開催地が異なります。これは演劇の全国大会は全国高等学校総合文化祭(文化部のインターハイ)の一部門として開催されているためです。さかのぼっていくと、鹿児島、東京、和歌山、高知、佐賀、長野、宮城・・・というふうに、全国各地で行われています。 

 

 私もそれに合わせて毎年旅をしています。全国大会以外でも旅をしていたりしています。大学時代に国内を周り始めてから、すでに43都道府県を踏破しています。そこでの出会いや事件も魅力的です。岐阜で出会った人に朝昼晩をご馳走してもらったり、愛媛では傷害事件に巻き込まれて事情聴取を受けたことも。鳥取で出会った人とは10年近く経った今でも交流があり、今度結婚式に呼ばれることになっています。 

 

 しかしいまだに行ったことがない都道府県が、山形、石川、福井、沖縄です。沖縄はずっと行きたいなと思っているのですが、なかなか行けていません。そんなことを考えていると、11年前のことを思い出します。私が大学2年生のとき、長崎の全国大会で出会った沖縄出身のおじさんの言葉を思い出します。私が「次に彼女でもできたら、沖縄行きますよ」と言うと、おじさんは「じゃあ一生来れないね」と返してきたのです。それから11年。私にはまだ沖縄に行ける見込みはありません。おじさんには先見の明があったようです。 

 

 そんなことはさておき、演劇を観ることと旅をすることは同じようなものだと思います。新しい人や出来事との出会いなのです。さて、929()104()にかけ、江別市のえぽあホールにて高校演劇の石狩支部大会が行われます。本校演劇部の上演は103() 14:20~となっています。平日の真ん中ですが、興味のある方はぜひご観劇ください。 

多くのアメリカ人がコーヒーを飲み、多くのイギリス人が紅茶を飲むのはなぜか?アメリカ人は独立戦争前、戦争中、戦争後に紅茶をボイコットし、イギリス政府は紅茶に課税することでより多くのお金を得たからだ。

両国はともに正反対の国として始まり、正反対の国として終わった。アメリカの初期には紅茶の方がコーヒーよりも人気があったが、今ではコーヒーの方が人気がある。1600年代以降はコーヒーの方が紅茶よりも人気があったが、今では紅茶の方がコーヒーよりも人気がある。

まずイギリスを見てみよう。イギリスでは1600年代までコーヒーも紅茶も知られていなかった。コーヒーの飲用はアフリカで始まり、中近東を経てオスマン帝国全体にゆっくりと広がっていった。南ヨーロッパには1500年代半ばに上陸し、1600年頃にオランダ人によってイギリスに伝えられた。コーヒーの需要が高まり、多くのコーヒーショップができた。イギリス政府は植民地でのコーヒー栽培を始め、コーヒー栽培は広まった。非常に人気のある飲み物で、人々はコーヒーショップの環境だけでなく、その味と効果も好んだ。数十年のうちに、イギリスには何千ものコーヒーショップができた。

紅茶が英国に伝わったのは、コーヒーのほぼ半世紀後のことだった。アジアで飲まれていたお茶は知られていたが、イギリスでは売られていなかった。1650年、紅茶はイギリスに紹介され、トーマス・ガーウェイは自分のコーヒーショップで初めて紅茶をドリンクとして販売した人物として知られている。あまりに斬新な飲み物だったため、彼は紅茶と一緒に配ったパンフレットでそれが何なのかを説明しなければならなかった。紅茶は一般的に薬として、健康に良いものとして売られていたが、非常に高価で、本当に裕福な人しか飲めなかった。紅茶は喫茶店でもよく売られていたが、それほど人気はなかった。最初の紅茶店ができたのは1706年で、トーマス・トワイニングの店だった。

18世紀半ば、東インド会社は中国との貿易を始め、インドで茶の栽培を始めた。供給は増え、価格は下がった。より多くの中流階級や労働者階級の人々が紅茶を買えるようになったが、紅茶を飲むことは上流階級と結びついていたため、紅茶はとても立派な飲み物だった。1700年には外国産とみなされていた紅茶も、世紀末にはイギリスらしい飲み物とみなされるようになった。紅茶がコーヒーを上回るようになったのは、コーヒーの価格が不安定になったからだ。それと同様に、東インド会社はイギリス市場にできるだけ多くの紅茶を押し込んだ。政府は税収のために彼らを支援した。19世紀には、紅茶はコーヒーよりもはるかに人気があった。

アメリカはこの逆だ。1600年初頭、オランダ人入植者がアメリカの植民地に紅茶を持ち込んだ。紅茶はアメリカ植民地で最も人気のある飲み物となった。紅茶はオランダ東インド会社によって輸入された。イギリスがすべての植民地を支配したとき、彼らの東インド会社は分け前を欲しがり、紅茶の輸入を始めた。紅茶は中国から輸入され、東インド会社にとって非常に有利なビジネスだった。しかし、1773年までに東インド会社は大赤字を出すことになる。イギリス政府は東インド会社を支援するため、紅茶法を制定し、東インド会社にアメリカ植民地での独占権を与えた。これによって東インド会社の紅茶は安くなったが、多くのアメリカの紅茶輸入ビジネスに打撃を与えた。ボストン茶会事件では、大量の英国産紅茶が船から投げ捨てられた。これによりイギリスは報復に転じ、やがて宣戦布告された。

これ以降、アメリカ人は紅茶を飲まなくなった。紅茶は裏切り者の飲み物として知られるようになり、アメリカが戦争状態にあったイギリスと結びついたのだ。独立戦争中、紅茶はボイコットされ、人々はコーヒーを飲むようになった。戦争が終わる頃には、人々はコーヒーに慣れ親しむようになり、紅茶は依然として敵国イギリスを連想させ、復活することはなかった。アメリカは依然としてコーヒーを飲む国なのである。そして、これが今日私が学んだことである。

 今年度、北星女子に来た伊勢です。私は昨年6月まで約3年間ベトナムのハノイに住んでいて、日本に留学することを目指すベトナム人中高生に理科を教えていました。今回は少しだけですがベトナムについて紹介させてもらおうと思います。これから世界を舞台に活躍するみなさんの視野を広げることができれば幸いです。

ベトナムというと、緑豊かな山に水牛がいる長閑な景色を想像する人が多いかもしれません。確かにそのような地域もあるのですが、私が住んでいた首都ハノイは高層ビルが立ち並ぶ大都会です。ショッピングモールも多く、日本のイオンやダイソー、業務スーパーだってあります。そのため必要なものは何でも手に入り、生活するのにほとんど不便はありませんでした。不便を強いてあげるとするならば交通渋滞が多いこと。きっとみなさんもベトナムに行くことがあれば道路を走るバイクの多さに驚くことでしょう。

ベトナムは観光地としても魅力があり、世界遺産となっている古都フエやハロン湾は有名です。歴史等の難しい話は少し苦手…という人には南部のビーチリゾートが穏やかに過ごすことができるのでおすすめです。また、食べ物は何を食べても安くておいしいので、きっと旅行で訪れたときには満足することができるでしょう。

たくさんの魅力があるベトナムで私が一番好きだったのは、カフェが多いこと。じつはベトナムは世界第2位のコーヒー豆の産地で、コーヒー好きには最高の環境です。街のいたるところにカフェがあり、朝早くから夜遅くまで練乳入りの甘いベトナムコーヒーを飲むことができます。カフェには平日昼間でもなぜかたくさんの人がいて、楽しそうに話をしている雰囲気も含めて好きでした。

現在、力強く経済成長を見せるベトナム。しかし人々の生活に目を向けると、時間が穏やかに流れていてどこか懐かしい雰囲気があります。もし少しでも興味をもった人は是非一度行ってみてください。

もう大谷選手が日本ハムファイターズにいたのは何年前だろう…,今やメジャーリーグでも大活躍で世界のスーパースターとなった大谷選手!!私も小学校2年生からリトルリーグという硬式野球チームに入り,以後中学,高校,大学,社会人クラブとずっと野球チームに所属してきました。そんな私が,縁あってテニス部の顧問となり10数年。元々,どんなスポーツも見ることは好きだったので,テニスの基本的なルールやスター選手(ジョン・マッケンローとかグスティフィー・グラフとか,お父さんお母さん知ってるかも。)は知っていましたが、自分はテニスの経験はゼロです。

顧問として初めて大会の引率をしたとき,衝撃のルールを知りました。野球では当たり前のようにベンチや応援席から聞こえる声、「かっ飛ばせ―(打てー)」,とか「走れ!!」などがテニスでは絶対にしてはいけないというルール。試合中,ベンチにコーチは入れない,試合中に誰も選手と会話をしてはいけない、つまり試合中にアドバイスを受けることができない。一般のお客の応援ですら,「あっちに打て!」とか、「走れ!!」など、プレーに関わる声をかけてはいけないのです。今思うと,昔からプロのテニスの試合をテレビで見ると選手のコーチがスタンドに映っていた。(なんでだろう?とは思ったことはありますが、、)野球をしていた私には考えられないルールでした。野球では,常にお互い声を掛け合い,励ましあい,監督から細かく指示があり,監督のサインで攻撃や守備を行うことが普通です。テニスって,「なんて孤独なスポーツなんだろう。」それが第一印象でした。「孤独に戦う」、「孤独と戦う」そういうスポーツですね。北星のテニス部も頑張っています!!中学生は全国中学校テニス選手権大会(全中)で団体戦、3年連続10回目の出場をしました!!高校生も北海道の苫小牧で行われたインターハイに団体で出場をしました!!これからも頑張ってほしいです!!

そして,テニス部に限らず、これからみなさんは勉強や進路,仕事などなど、色々なことに孤独に考え行動しなければいけないことがあります。1人でも頑張れる強さを持てるといいですね!!

 

 小学生のころから釣りをしていました。もう45年以上していることになります。本格的に釣りを始めたのは北星に勤め始めた30年程前の話です。

 若かった僕は,部活が終わってから夜釣りに行っていました。当然辺りは暗いので明かりが必要です。自分の車にライトを追加して,暗闇でも釣りができるようにしていました。どんどん釣りにはまっていった僕は,とうとう「鮭釣り」を始めました。今では仲間と一緒に鮭釣りにいくのが毎年の楽しみの一つです。

 

 僕は「のんびり竿をだしている」釣りと,「ガンガン攻める」釣りの両方を楽しんでいます。そして,必ず食べるために釣りをしています。ゲームフィッシングはしません。かつて師匠に言われました。「魚からすれば釣られることは命がけなのだから,お前もしっかり魚と向き合え」と…

 それ以来,釣りをするときの2つのルールを決めました。①食べられる魚を食べられる分だけ釣る。②帰るときは釣り場を来たときよりきれいにして帰る。…です。今でもこれを守っていますし,自分の子供たちにも伝えています。

 

 釣りは色々なことを感じさせてくれます。釣れる魚種で季節を感じ,魚と真剣勝負をする。サケ,マス,サバ,イワシ,ホッケ,ハゼ,カレイ,イカ,ニシン,シャコ,カワハギ,サヨリ,ワカサギ…となんでも釣ります。変わり種として,カニ,タコ(もちろんリリースしました)等も釣れたことがありました。周りの方と釣り談義を楽しんだ後は,帰宅して自分の釣った魚を捌き,命をいただきます。命の連鎖に感謝です。

 

タイトルにあるのは僕が登録している釣りチャンネルのオープニングソング(*1)の歌詞の一部です。釣りの動画と,釣った魚を料理する動画がアップされています。魚がさばけるようになったのは,これらの動画を毎日見ていたからだと思います。おかげで,料理の腕は少しあがったかな?子供たちは,自分の釣った魚を刺身にして食べるのを楽しみにしています。

そんなこんなで,釣りに行くと釣れても釣れなくても,僕は気持ちよく帰ってくることができます。

 

だから,釣りは僕を日常の疲れから救ってくれます。今後も続けていきたい趣味の一つです。

 

 

*1 YouTube『釣りよかでしょう。』のオープニング『釣りよかでしょう。のテーマ』シンガーソングライターの頭 勇哉(えがしら ゆうや)さんが手掛けた曲。

 

1か月もの長い長い夏休みが今週で終わりを迎えました。皆さんはどのような夏を過ごしたのでしょうか。部活や勉強に打ち込んだ人、のんびりと過ごして体を休めた人、せっかくの長い休みということで、なにか新しいことにチャレンジしてみた人…などなど、色々な過ごし方があったかと思います。自分が学生だった頃を思い返すと、一生懸命部活動に励み、勉強は適度にして(ギリギリまで課題が終わらず焦るタイプでした…笑)…という夏休みを送っていたような気がします。

 さて、少し長めの夏休み。わたしは、「新しいことにチャレンジする!」を目標とし、色々なことに取り組んでみました。いつかは…と先延ばしにしていたペン字練習をしたり(2年生勉強会の間に、文字の練習をしていました…気分はすっかりドリルを熟した小学生時代の夏休みです)、ずっとやってみたかった水引アクセサリーに取り組んでみたり…、とても充実した夏を過ごしました。

 その中で最も印象に残っているチャレンジは、「シュークリーム」づくりです。

日本では幕末から食べられるようになったシュークリーム。今日では、お菓子屋さんや専門店だけに限らず、コンビニやスーパーなどでも手に入れることができるようになりました。シュークリームはフランスで生まれたものです。フランスでは、「シュー・ア・ラ・クレーム」と呼ばれています。それぞれ、「シュー」は「キャベツ」、「クレーム」は「クリーム」という意味を持っており、キャベツの形に似ていることから名付けられたそうです。

 シュークリームづくりには、どことなく難しいイメージがありずっと避けていたのですが、「新しいことにチャレンジする!」というこの夏の目標に背中を押され作ることを決意しました。シュー生地は勿論のこと、中に入れるカスタードクリーム、仕上げのカラメルなど多くの工程があり、何度も失敗したかも…と不安になりましたが、無事に完成することが出来ました。

 ちなみにですが…シュークリームなどのシュー生地を食べた時に、「ちょっとしょっぱい…?」と感じることはありませんか?実はシュー生地を作る際には、結構な量の塩を入れるのです。(今回わたしが使用したレシピでは、砂糖と同量の塩を入れています。)

 小麦粉には、「グリアジン」と「グルテニン」と言われるたんぱく質が含まれています。このグリアジンとグルテニンに水を加えて捏ねると、「グルテン」と呼ばれる成分が出来上がります。パンなどが膨らむのはこのグルテンのおかげです。そしてなんと、塩が加わることで、このグルテンはより力を発揮することができるのです。ぷっくりと膨れたシューを作るために、この塩は重要な役割を果たしているのです。

 


 

自分でつくったシュークリームを食べるのは、別格のおいしさを感じられました。少し難しいお菓子ですが、是非みなさんもチャレンジしてみてはいかがでしょうか。休みが明け、皆さんの充実した夏休みの話を聞くことがとても楽しみです。

 昨年度の私のブログタイトルは「旅のしおりは親のエゴ」。今回の夏休みもそのエゴを貫き、家族3人で(娘は留学中)道東の方へ旅しました。私が作るしおりはだいたい10ページほど。出発する数日前にできあがると、息子が楽しそうに読んでくれます。しおりの中身には必ず現地を見学しないと答えられないクイズや、感想などを書いてもらいます。こういうところに職業柄が出てしまい、お恥ずかしいのですが・・・

 今回のメインは、知床半島巡りと網走監獄。なぜ、この場所を選んだかというと、きっかけは歴史的建造物好きな娘が網走監獄に行ってみたいなぁとつぶやいたその一言。その一言から道東を雑誌で調べるようになり、調べてみると明治のころから開拓の拠点として道東の礎を担っていたことがわかりました。・・・はい、わくわくし始めてるのは私です(娘よ、ごめん)。

 札幌から知床まで、車で6時間半。北海道横断の旅です。途中、道の駅に寄りながらの行程でしたが、それにしても遠い!道東出身の生徒さんが本校には何人もいますが、保護者の方がガイダンスに来てくださったり長期休暇でお迎えに来てくださることを考えると、本当に感服してしまいます。

知床半島では観光船に乗りましたが、冬場の流氷にもまれながら形作られた岸壁を間近で見ることができ、とても迫力がありました。ひとしきり、観光アナウンスが終了すると、加藤登紀子さんの「知床旅情」が流れます。この曲がとてもノスタルジックで、しばしその艶やかな歌声に浸っておりました(夫と息子は若干退屈ぎみ)。

そして次の日は網走監獄へ。こちらは本当に見どころ満載でとても興味深かったです。監獄が作られた経緯はロシアの脅威からこの蝦夷地を守るため、また当時の戊辰戦争や西南戦争による囚人の行き場を作るため。この監獄に集められた多くの囚人たちのおかげで、道東への道が迅速に作られたわけです。しかし、この極寒の地での労働は命の危険も当然あったわけで、たくさんの方たちが亡くなられたとも説明されていました。私が感心しながらそれぞれの建物を見ていると、あれ?うちの家族がいない・・・・気がつくと二人で虫取りしてました。

 

 そうですよね、わかっているんです。我が家の男性には私の旅プランが受け入れられていないことを。今回は、娘がいないため、相槌を打ってくれる相手がいないことも、とても寂しかった。でも、家族の行事は絶対です笑。もうすぐ娘も留学から帰ってくるので、今度のプランは娘と一緒に企画したい!我が家の旅は、まだまだ続きます!

 皆さん方には、推している語はありますか?私の今の推しの語はgiveです。giveは基本単語ではあり、学習を始めたばかりの時に出逢います。しかしながら、使いこなすのが難しい語でもあります。

  推しの語(give)の出身地は、ドイツらしく、古くから英語のメンバーだったようです。(giveの語源を遡ると、ドイツ語gebenと関係があるということがわかっています。)giveは、その単語のみで使うとよりも、2語以上のつながりで使用されることが多いです。例えば、写真を撮る際に、相手に向かって「にっこり笑って」などと言いたい場合、何と言いますか?Smile!などとも言えますが、Give me a big smile!と表現すればいいでしょう。giveを使用すること、またa big smileと笑顔に対して形容詞bigを加えることで、笑い方の説明も同時にすることができます。

  気になる語があれば、辞書を引いて、その語源(出身地)や一緒に使われる語(仲良しの語)を調べてみて下さい。語は、1語で使われることよりも、2語以上のつながりで使われることがほとんどです。皆さん方には、推しの語はありますか?ぜひ、気になる語の追っかけをして、辞書を活用し「推し活」をしてみて下さい。

私の最大の情熱の 1 つは旅行です。私は米国マサチューセッツ州スプリングフィールドの下層中産階級のカトリック教徒の家庭に普通の子供として生まれました。人生の最初の 17 年間は、高校を卒業して就職し、定住して残りの人生をそこで過ごすだろうと考えていました。しかし、神は私に対して別の計画を持っておられました。

ちょうど40年前、私は一人で飛行機に乗ってグアテマラとベリーズのジャングルへ行きました。私は以前からジャングルの野生動物に深い興味を抱いており、大学1年生の時に実際に熱帯雨林を訪れる機会がありました。当時、人生で唯一の旅行になるだろうと思っていましたが、結局かなり違ったものになった。

その旅行中に、私の世界に対する認識は変わりました。拡大しました。聞いたこともない食べ物を食べました。私は母語ではない言語でコミュニケーションをとりました。私は自分の文化とは大きく異なる人々と一緒に暮らしていました。この経験は私に驚きと放浪癖を植え付けました。

その最初の旅以来、私は 30 か国以上を訪れ、いくつかの外国語を学び(そして忘れて)、世界中から数え切れないほどの友達を作り、1,000 冊の旅行パンフレットを埋めるためのサイトを見てきました。

私にとって、世界旅行は忘れられない経験であり、私の人生にさまざまな影響を与えました。常に新しくて豪快な場所を訪れることができれば幸いです。

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みなさんは動物が好きですか?私は動物全般(昆虫は別ですが。。。)が大好きで、小さいころからよく家族で動物園や、実際に動物と触れ合える場所に行ったりしていました。 

そんな私は今まで3匹の犬を飼っていたことがあります。1匹目は、自分が生まれる前から実家で飼っていた真っ白なシベリアンハスキー。2匹目は小学3年生の時に父がいつの間にか手続きをしており飼い始めたシェパード。2匹とももちろんとーーっても可愛いのですが、外で飼っていたこともあり、ここまでずっと大型犬と一緒に過ごしてきた私は、いつからか「小型犬を飼って家の中で一緒に過ごしたい…!」と思うようになり、毎日のように両親にお願いをしていました。そんな中、ついに数年経った中学2年生のGWに、父から「じゃあ見に行くか」と許可が下り、当時まだ元気だったシェパードを連れてペットショップに新しいメンバーを探しに行きました。 

ただ、一緒に連れて行ったのはシェパード。どの子も生後数か月なのでその大きな姿に怖がり、びくびくと震えていました。が、そんな時、1匹のミニチュアダックスフンドだけがほそ~いしっぽをブンブンと振り回し、遊ぼう遊ぼうと言わんばかりにシェパードに飛びついてきました。私たちは「この子だ…!!!」と運命を感じ、無事にその子を引き取お家に帰ってくると、私たちもびっくりするほど2匹は仲良し。起きている時は家の中で追いかけっこをしたり、夜は一緒に眠ったり…お兄ちゃんから顔をなめられてべちゃべちゃになっても、ずっとくっついていました。 

そんな楽しい時間はずっと続くと思っていましたが、ダックスを飼い始めてから数か月たったある日、シェパードが悪性リンパ腫という病気にかかっていることが分かりました。そこからあっという間に病気は進行し、約1年経った頃にシェパードは亡くなってしまいました。いつか別れが来るのは分かってはいたけど、こんなに早いとは。。。もっともっと可愛がってあげれば良かったと本当に後悔しました。 

 

「毎日遊んでいるのに 大はしゃぎして飛びついてきて 幸せなときもそうではないときも いつも傍に寄り添って ときには向き合うことができなくても 疑うことなく信じてくれて 何も話さなくてもわかってくれて 一緒に過ごすのが当たり前になって ときには兄弟となりときには親友にもなり いつのまにか誰よりも歳をとっていく 衰えていくその姿から目をそらさないこと 最後の最後まで見守ること 命を持って教えてくれたことを忘れないこと 家族を失う悲しさを 生きる時間は限られていることを 精一杯今を楽しむことを どんなに悲しくても辛くても いつかその日が来たら 出会えたことに感謝する」 

 

これは、たぐちひさとさんによる「犬の教え」というものです。 

動物はたくさんのまっすぐな愛情をからだ全体を使って一生懸命に表現してくれます。その反面、私たちはお互いに言葉を発して思っていることを伝え合えるのに、それが分かっているからこそ、ことばの大切さを忘れ、雑になってしまい、時には相手を傷つけてしまいます。 

せっかく私たちは「ことば」というツールを得て、話す機会を与えられたのだからこそ、その「ことば」を大切にして、自分の身近にいてくれる人や動物に感謝を伝えながら毎日過ごしたいですね。 

さて、そんな小川家のダックスももう14歳。いつまで一緒に過ごすことができるか考えると不安や悲しみが襲ってきますが、残りの時間を大切にして今日もたくさんの愛情を注ぎたいと思います。

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